敬称略の敬意とは。

雨のシャンサンシャンという音が好きです。これは、雨に当たらない場所、部屋の中などほどほどに離れたところで聞こえる音(車が雨の落下を横切るときなど)なのですが、きっとひとごとだからこそいい音に聞こえるんでしょうね。涼しいし。
   
敬称。作家やタレントについて話すとき、その人を呼び捨てにするか、敬称をつけるかは人によって異なるけれど、呼び捨てが必ず失礼かというとそうでもないように思う。たとえば私は、漫画家さんには反射的に先生とつけたくなるけれど、でも手塚治虫クラスになるともはや呼び捨てである。一周回ってという言葉がこんなにぴったりくることもないけれど、とにかく一周回って呼び捨てである。さん付け・先生付けになぜか尻込みしてしまうのです。もう、もう、手塚治虫は「手塚治虫」という現象なんですよ! わかりますかこのかんじ! 仰ぎ見るあまり、「人」というより「現象」そのものに昇華してしまったこのかんじ。すでに亡くなっている人だから、というのもあるかもしれない。あまりにも遠すぎると、敬称をつけることすら忘れてしまうし、それが馴染んでしまう。つまり、相手が人であることを忘れてしまっている。一方で手塚治虫が現役の頃に漫画を読み、漫画家になり、そして自身もすでに伝説になっているとある先生は、手塚治虫をやはり「手塚治虫先生」と呼ぶ。そこには先生と手塚治虫の歴史の、重なりが浮かび上がるように思う。私にとって手塚治虫は歴史上の人物だけれど、先生にとってはそうではない。生きていて、近くにいたことだってあった、だからこそ現象ではなく、「手塚治虫先生」なんだろう。
一方で、たとえ亡くなっていない作家だって呼び捨てされることはあり(手塚治虫だって生前から読者にとってはそうだったんじゃないかなー)、そしてある意味で「現象」としてみなされ、呼び捨てされる作家のありかたは理想的だと思う。そもそも作品が見られるためのものであり、作家なんていう存在は影であるはずなのだから、作家に「人間感」など見出されないこと、つまり現象のように呼び捨てられることは、私にはすばらしいことのように思える。なんというか、その作家の作品に心奪われた人が、作家の名を呼び捨てにする姿は私にはとてもとても自然なことに見えるのだよね。作品だけしか見えていないのだ、作品に心奪われてしまったのだ、というのがなんか、溢れ出てるなあ……と思います。そんなこんなで6月が終わる!
   

ごはんは食べる前が一番おいしい。

通常なら絶対に手に入らないようなものすら美味しいと思うのはなんというか生命の神秘だと思うのですがどうでしょうか?陸地の生物に、遠海の魚を食べさせたり、寒い国の生き物に、暑い国の食べ物を与えたり。それがおいしいものとして認識されるのは不思議です。初めて食べた味、というのが認識できるというのは、「?」ですね。どこまで生き物は受容できるんだろう。他の星の食べ物も消化できたりするんだろうか?こういうのが進化のきっかけになっているんだろうな。
   
プレゼント包装といえば最近は不織布のようなかんじの布の袋に入れてきゅっとしばるだけというのが多くなって、もちろんそれはすごく効率がいいのだけれど、でも、なんだかやっぱりプレゼントは紙で包まれたもの、という感覚が消えないのです。きっと、クリスマスのせい。サンタのせい。クリスマスの朝、枕元に置かれた謎の四角い物体。つつまれてなにかはわからないけれどまず最初にそのつやつやとした箱の形にどきどきしたものです。これぐらいの大きさなら、あれかな、これかな、そんなふうに頭が想像をはじめる。つやつやした包装紙に反射する光や、触った時の冷え切ったかんじが、また内側への期待を膨らませて、いいんだよね。なんだろうね。袋も大して変わらないはずなのに、こう、箱の形にぴたりと合わせているところがいいのかな。
ということで、季節はずれな話題を持ち出したものの、話が続かず、「あ、どうしよう」という気分でございます。ほどほどに雑な情報、というのは妙に魅力的に見えるというか、プレゼントだと大きさとか、箱の形とか。魚でも「これぐらいの大きさ」とか言いますよね。具体的なあらすじを聞くより、なんていうか、おおまかな映画予告のほうがよかったりね。そういうことはあります。勝手に期待できるからだろうか。あらすじとか実はネタバレする直前までのぎりぎりのやつが一番面白かったりね。ごはんも食べる直前が、なんとなく一番おいしかったりね。「今日はナポリタン食べたい!ナポリタン食べるんだ!ふふふ」っていうそのテンションの時がこう、一番美味しい気分になっている。こういうことを考えるとなんていうか人類って幸せな生き物なんじゃないかと思うのだけれど、私だけかもしれない。手に入れる直前が、いちばん幸せって感じがする〜とかいう歌がありそう〜ららら〜♪
   

スマホのすごいところは光るところ、押したら画面が変わるところ。

朝になる前までは夜なのだと思うようになって久しい。夜と朝の間には眠りがあり、それがなだらかに変貌していくようなそんな様子を見ることはなかったのに。ああ大人になってしまった。というか夜更かしの鬼になってしまった。辛い。こういうことをしたって、効率的に生きたことにはならないんだよ。早寝早起きを大切に生きていきたいものですね!
   
さて。15年前の映像とかを見ると、服装とかがすごく古く見えるよ。どうしてだろう。だって15年前でしょ? 自分の記憶を辿ってみたら、15年前の私はすぐ思い出せるし、別にそこまで昔って感じがしない。おかしい。あのころの私はテレビの人たちとか「おしゃれで最先端」と思っていたはずだし、古いだなんて思いもしなかったのに今見ると、古く見える。こわい。こうやって過去の自分が見ていたものが決定的に見られなくなるのはつらいものです。ポケットモンスターが最初に出た時ゲームボーイのあの小さな画面を小さいだなんて思わなかったし、モノクロであることに違和感すらなかった。カラーが登場してやっと、「あ、こっちはモノクロだ」という認識が増えた。それまでは本当の意味で気づいてはいなかったのに…。こうやってつまらなくなっていくんです。過去というものがどんどん劣化していくんです。当時はきらきらしていたのに、たまごっちをみて「うわー線ががたがたやな」とか言うようになってしまうのです。それがいいんじゃないか!と思ったって、「逆にそこがいい」とか思っている時点で、「わ〜絵が写ってる〜動いている〜」とドキドキしていた幼い自分とは違ってしまっている。昔は液晶画面というものすら魔法だった。テレビみたいに大きくもないのに、小さな画面でぴこぴこ絵が動くなんて、それを持ち歩けるだなんて、夢みたいだった。
そういえば、今でもどらえもんとか見ていると、CMでスマホ風のおもちゃとか売られていますよね。こう、もちろん通信はできないけれど、ある程度遊べるアプリがあって、ぽちぽち押してスマホみたいに使える、っていう。まあ、似非スマホなんですけれど、そういうのって私の時もありましたよね。携帯電話とか。電話できないけどぽちぽち押したら録音されていたアニメ声が出る、とか。そういうの。こういうのって、やっぱり大人が持っている魔法のような道具を持ってみたい!っていうところにつながっているんだけれど、子供がすごい!って思うのは「わあ、電話が持ち歩けるんだ!」みたいなことではなくて、「わあ!ちいさな機械から声が聞こえる!」とか、「わあ!ボタンを押すと、液晶画面に文字が出てくる!」とかそういうことなんですよね。だからあのおもちゃでも満足するというか。むしろそれで十分というか。そういうのって、いいですよね。大人はどうしても「なんのためにこれは生まれたのか」を気にしてしまうけれど、でも、そんなことは知ったこっちゃないと、子供は「自分にとってこれはどこが素敵か」を注目するわけで。いいよね。私も車の見た目がかわいいという理由だけで、運転もせずに、駐車場に置きっぱなしにして、中に水を満たして水槽にするぐらいの心がけでいたいです。(意味不明ですね。知ってます)
    

可能性の羅列、つまり辞書。

辞書の薄い紙をめくることがなくなった。このことはなんだかおそろしいよね。だいたいで開いてめくっていくあいだに言葉にいくつも出会っていくような、そういうふしぎな読書体験をすることがなくなってしまった。知らない言葉はいくつもあるのだということや、自分の知っている言葉があまりにも細い、危うい糸でしかないことを、思い出すためのあの薄い紙。めくることなくなってしまったなあ。検索してしまえば早いものなあ。
   
使われている言葉と、使われるために並んで出番を待っている言葉というのはやはり全然顔色みたいなものが違って、小説で知らない言葉に出会って、「たぶんこう言う意味だな」と思いながら想像する「意味」と、辞書で見つけて説明を読み知る「意味」はまったく違う。そもそも言葉というのは、「使われて」伝えられてきた言葉であり、「なんとかかんとかを持ってきてよ」「なんとかかんとかってなんですか」「あれだよ、あれ」というふうにある意味「現場」で共有されてきたはずなので、やはり使用されている状態で新しい言葉に出会うと、新鮮さがちょっと違う。辞書で見る言葉というのは、まあ、出会ったようで出会ってないかんじというか。結局は「予告」でしかないというか。自分がその言葉を使う遠い未来への小さな予告。例えれば、血を入れる前の生き物みたいで、それを知っておくとその先、ある瞬間になんらかのきっかけで血の入った注射器を手に入れた私が、やっとその空っぽの言葉に血を入れて生かすことができる、使うことができる、というような、そんなかんじでしょうか。(だいたいでしゃべっているのでよろしくお願いいたします)辞書で言葉が並んでいるのは、知識とかではなく可能性の羅列というかんじなのかなあ。だから薄っぺらいのかもね。紙がね。(何度も言うようですがだいたいでしゃべっています)
   

不器用も極めれば鮭になる。

どってんかいめい!金曜だ!
(このセリフは今思いついただけの金曜にちなんでいるようでちなんでいない意味不明なセリフです。)
   
私は非常に写真が下手でして、写真という概念が私の感性に合わないとか言い訳することも多々あるんですがまあそんな言い訳したって要は下手なわけでして、あれなんですよね、なんでこう、画面に注意をそそがなければならないのか。というか、映るものとかそういうのが自分のコントロール下にないのがおそろしいのです。いやそれを超えたところに写真のすばらしさというものはあるのもわかっていて、わかっているからこそ私は写真作品ってすごく好きなんですが、でも私にその才能はないの…なぜなら…なぜなら究極の「雑」だからだ!私は!!!!
言葉という、まあ便宜上形になっているけれど、本質は形ではなく、つまり視覚とはほとんど関係のないものばかりに感覚を使っているせいか、視覚というものに対する感覚がたぶんすごい幼いというか未熟で、簡単に言うとですね、字が汚いんですよ。まず。そこなんですよ。ゲラの直しとかたいていメール来ます。ちゃんと丁寧に書こうと頑張っても連絡が来ます。私の赤字にやじるしがついて「これなんて書いてありますか?」(編集さんはとても気を使った文章で聞いてくださいますが要はこういうこと)を聞かれます。すべて私が悪い。本当に私が悪い。昔から自分が思いついた速度で書き残すように書いていたため美しさとか気にしたことがなかった。ノートに名前を書いていないとたいてい先生はまず男子に「これだれのだー」って聞きに行ってた。私のです!先生すみませんそれ私のです!でも一周回って習字の行書はたいへんいい成績でした。勢いしか私にはないのか。私は産卵に向かう鮭かなにかなのか!!!!
まあそういう私でして、字がなんでそんなにへたなのか、と言われるけれど、これたぶん下手な人しかわかってくれないとおもうけれど、あれなんですよ。思っているところにね、ペン先が降りないの!進まないの!曲がるの!歪むの!私だって最初から汚い字想定で手を動かしてませんよ!でもあんなこまかく想像通りに指など動かせぬわ!絵とか描く人本当に異常だとしか思えない。なんであんなこまかく自分がおきたいところにペンが置けるの…?おかしくない…?で、まあ、そういう感性の持ち主なのでカメラもおおよそ5割ぶれるんですが(私にシャッター押してとか言う友人は誰もいない、ノーバディーだ)、そういうこともあり、どうせ、自分が枠にいれた景色通りにカメラに収めることはできないとおもっているからか、こう、構図を決めるのも雑になるんですよね。そう。そうです、要は「カメラって難しすぎんだよ!!!』これに尽きます。カメラって難しいんですよ、操作が。だって、シャッター押さないとダメでしょ? 指動かさなきゃダメでしょ? むりです。ショートカットキーで動くもの以外私にはなにもうごかせない。(キーボードはある程度場所ずれても押せるので使えるのです)つまり私に扱えるような武器じゃないのよ、カメラは!同じく、鉛筆とか、コップとかやめてほしい(我が名は「コップよく落とす大魔王」です)。本当に言葉はデータのみだからいいのです。キーボード打てたらOKなんて、私のためにあるとしか思えない。ああはやく、道具とかこの世から消えてはやくショートカットキーだけで生活できるようになってほしい。未来へ…!
   

フレンドリー不要論

たぶん料理人の人がわざわざ野菜切るのをめんどくさいって思わないのと同じように(いや聞いてきたわけじゃないけど)、私も言葉を書くことに慣れすぎたのか麻痺したのかもはやめんどくさいと思うことはほぼなくて、ただぼーっとしてるほうが苦痛なのですが、それでもどうしてか事務的なメールだけはめんどうでしかたなく筆が進まないというあの現象が発生する。多分、私は書かねばならぬという状況が苦手なんだろうと思う。(原稿とかは依頼があってもなくても書くのでこの状況には当てはまらない。)別に、仕事上の連絡だけなら大丈夫なのだけれど、ある程度の愛想や礼儀が必要になることがどうしても苦手で、定型文というものに頼りっきりだし、でもその効果をちゃんと発揮できているのかすらわからない。ああ。やらねばならないことというのはどうしてこんなにも蝕んでくるんだろう。お風呂に入るにしたって、入ろうと思ってから実際に入るまでのタイムラグがひどい。(ちゃんと毎日入ってます)入ったら入ったで動くのが面倒で出なくなり、多分そのうち私は湯船に溶けて消えるのでしょう。おわってるで、ほんま。こういうのはよくない、とつねにおもっていたのだけれど、どこまでがよくなくて、どこからはしかたがないのか。きっちりみっちり前髪は揃えていないといけないのか、三食ちゃんととるべきなのか、そのへんがわからなくなり、だからぼくは植物を枯らすんだよああー!っていう叫びがこみ上げてくるんでした。ルーティンが無理なんだ。どうしてやるのかの動機付けがどんどん甘くなって、なんとなく毎日やることになっている、っていう行為が苦手なんだ。花に水やるのとか忘れちゃうしね。生活ってすぐにルールになるから嫌だよ。ルールになる前の、あ、あれやろっ、っていうかんじがいいのになあ。はあ。なんかなにもかもがくすんじゃうよね。
で、なんだっけ。そう、事務的なメールが本当に苦手で、やばいっていうだけの言い訳にこんなに文字数つかうような大人なんだよ私は。昔から書きたくないものに対する気の入らなさがほんとうにひどく、読書感想文とかね、決められた本に対して書くときとかの心ここに在らず感溢れる作文とか笑える。今はそういう課題を与えられることもないし、メール連絡ぐらいしか、こう、書きたいのではない言葉、というものを書くことはなくなったけど、そのぶんちゃんとした作法も重要視される年齢になったので、違う意味で難易度上がってる。愛想っていうものの価値が未だによくわかってないのだよなあ。はなから仕事のメールとか、用件伝えるための道具としか思っていない節があり。しかたがないのですよね。羅列じゃ!メールなど用件の羅列じゃ!ぎえー!
   
正直に言うと私は、コミュニケーションにおいて、フレンドリーさというものは必要ないんじゃないかと思っていて、たとえ友人であろうと、家族であろうと機嫌が悪い時は悪いし、愛想とかなんですかそれっていう態度でいるのです。そりゃあ、仕事での打ち合わせとかは議題を進めるために、「話しやすさ」は作るよう努めます。だってまず会っている・ご足労いただいているのは目的があるためだし、そのためにはがんばりますよ。仕事だし。でも必要以上に好かれようとはしないというか、いい人に見せかける努力というのを必要だと思ったことはなく(たぶん私の周囲の人たちがいい人すぎた)、そのために、会話を関係性を育てるためのものではなく、目的を達成するためのもの、としか見てないんですよね。友達ともあんまり無駄話しないし。用件もないのにメールするような友達いないし。で、今、そういうのってコミュニケーションの範疇なんだ!って知ってびびって、用件を伝えるためのメールに用件以外の要素が必要なのか…変じゃない…?ってなっているわけです。好かれるためにコミュニケーションするっておかしくない?本末転倒じゃない?みたいな、そう、中学生的発想なのです!いまさら矯正など不可能なのです!友達は少ないです!別にそれで困ってません!メールの最後に「※怒ってません。」とか書くようなそんな人間になってしまうのだろうかそのうち…。
   

エッセイはおいしいもの。

私はどうやらエッセイ的なものが非常に好きなようで、今は近藤聡乃さんの『ニューヨークで考え中』をほくほく読んでいる。生活というものはなんというか、決してファンタスティックではないのだけれど、他人の生活は近そうで実は決して体験できないものなので、みずみずしく切り抜いた作品を読むのが好き。なんとなくなんだけれど、「おいしい」って思うんだよね。エッセイを読むのって食べる行為にとても似ている。
現実というのはプレーンな状態では最強の情報であるので、魅力的なのは当然だと思う。どんなりんごの絵より実物のりんごはおいしい。それは覆らない。でも、時々覆ることがあって、実物より絵のりんごを食べたくなる時があり、それはその絵が素晴らしいってことなんだと思う。フィクションはその可能性を秘めていて、あげく無限なので恐ろしいわけで。まあだからこそリアルというのは絶対的な存在だし、ある意味フィクションを評価する上での基準にもなるのだろうなあ。リアリティーがあるか、ということではなく、向こうの世界の方が本物に見えるか、という問題。嘘を真実に見せかけるのではなく、今その人たちがいる現実だった場所が「嘘」だったように錯覚させるパワーが必要なんじゃないだろうか。なんてねー、書いてみたけれどまあそこまで本気で書いてないので気にしないでください。リアルっていうのは、おもしろみというか新鮮味というか、ワンダーを添えることが非常に困難なので(実際のりんごには虫食いがあったり、肥料があわなくてぱさぱさだったりするようなものです)、そういう点においてすてきなエッセイというのは、偶然にもとんでもなくおいしいりんごを見つけてしまったかのようなそんな感覚になるのです。フィクションだってリアルだって、優劣なんてもちろんないけど、私はとりあえず食いしん坊なので、おいしいりんごを見つけてばくばく食べちゃうタイプなのです。
   
というか『ニューヨークで考え中』は装丁もかわいいよなあ。いい本だ。おすすめです。
  
ニューヨークで考え中