意訳:宇宙はやばくない。

輸入星座。世界最古の天文図というのは日本のキトラ古墳にあるもので、その天文図が星の並び的に「中国で観測した並びじゃね?」となったという話が最近ありまして、それがとてつもなく心踊る、夢湧き出す。まず星というのは、南半球と北半球で見えるものが変わるように緯度で変わるのですが、でもそれ以前に地球の自転軸ってべつにこの5000年で一定ってわけじゃないので(大学3年生ぐらいには軸がぶれる)、その傾き度合いをまずは計算に入れなくてはならないわけです。地球が傾けば傾くほど見えてくる星と見えなくなる星があり、そうしてさらに観測者がどのへんにいるかで見えてくる星と見えなくなる星があり、今回はそれらを計算した上で、この天文図は中国で、西暦400年頃に観測されたものだろう、と結論付けられたわけで。これがロマン!私は歴史に対して特にあんまりときめかないのですが、このときめきはすごいです。星というのはそもそも時間を超越した景色というか、見えている星がすでに本当は消えていて、昔に発せられた光が今やっと私たちに届いて見えているとか、じつは今もう新しい星が生まれているけれどその光がまだ届いていないから気付いていないとか、そういう「時間軸すら無視します」っていうことがあって、でも、一方で、大昔から双子座の2つの星(カストルとポルックス)は、まったく交易がなされていない(たぶん)ような別の国でも「猫の目」「夫婦座」「兄弟座」って言われていて、かならず「2つ一組」の存在としてみられていたりするのとかいうこともある。たとえ時間軸すら無視する景色であっても、星座の並びなんて地球じゃない星から見たら全然違うのだとしても、この地球上ではたとえ場所が違って、情報も共有されなくったって同じような見方がされていたのだ、ということにふんわり気分(そして若干気持ち悪い気分)になったり、していたわけです。一定なんてないし、星空にとっては、時間も場所も何もかもが、揺るぎないものではない、絶対じゃない。でも、すべてがばらばらなわけじゃない、という、そのこと。ある一定の条件が合えば、たとえ場所がバラバラでもなにかが共有される。めちゃくちゃかっこいいじゃないですか。そうして、今回の発見もこうやって一つずつ計算されて、「あ、これは西暦400年の中国の人が見ていた星空ですね」とかわかるわけじゃないですか。ああ…。昔は地球が回ってるのか太陽が回っているのかどっちだ!みたいなことをガリレオおじさんと他のおじさんが争ったりしましたが、結局太陽の周りを地球が回ってはいるものの、太陽だって銀河の中をぐるぐるしているのであり、銀河もぐるぐるしているのであり、宇宙は膨張しているのであり、なにもかもがつき詰めていくと、不定であり、そうして蠢いているということだけはちゃんとわかる、というのは好きです。宇宙は意味不明で怖い、という話もありますが、意味不明ではないと思います。ただ、人間の脳がキャパオーバーしているだけで。そこにはちゃんとした決まりがあり、法則がありそれは単純で、計算していけばちゃんと解明できるけれど、どこかが「絶対」みたいな暴力的な決まりがないから突然大正解がでてくるわけでも、それで一発解決するわけでもない、という。それだけのこと。「相対」。私はその「相対」が好き。だって、どこから見たってOKだから。地球から見て太陽が動いているように見えたって気持ちを、「いや、地球が動いているんだよ」って言われたって否定できないし、それにそう言っている人に「太陽だって動いているんだよ」って言ったって、その人を否定することにはならないし(その人の言っていることも間違ってないから)、そうして「いやいや銀河だって」とか言ったってそれが最終解ではないし、そんなこんなで、すべてが思考の起点となるし、そこから見た景色がたとえ他から見た景色からすると歪んでいたって、「嘘」にも「間違い」にもならないという、一つの答えが絶対的に君臨するわけではないこの「宇宙」が好きです。
   

冥王星の土地はいつ発売ですか。

✨🍞✨ 根拠なき自信にあふれたパン
🎀🍞🎀 おすましパン
🌊🍞🌊 水もしたたるいい男パン
   
別に実際にそういうことがあるわけではないけど、売れないと次の本が出せないかもという恐怖心は常にあって、「届く詩集を作りたいです」って言って「死んでしまう系のぼくらに」を出した時とか、本当に怖くて、でも実際にはいろんな人が読んでくれて、本屋さんもオススメしてくださって、そうしてたくさんの人に支えられたからこそ、また次の詩集のことを考えたり、昔の詩集の文庫化が決まったりできているんだと思っていて、もうありがたいどころじゃないなって思っています。
以前に書いた2012年にでた「空が分裂する」が、8月末に新潮文庫nexで文庫化されます。表紙は押見修造さんです。ブログに「在庫がなくなりつつある」って書いた直後に連絡があって(といっても私が知らなかっただけでそれより前から動いていたお話だったみたい)、このお話をいただいて、本当にどういうこと?!って私も思ったのですが、でもまじで決まりらしく、わっしょいしょい。ありがたいかぎりです。こうしてまた詩集がいろんな人の目に触れるきっかけがもらえること、嬉しさ太陽系外クラス。(そういえば、冥王星にNASAが急接近、マジで恋する5秒前になってましたね。おめでとうございます。)本当に、嬉しいです。私にとって初の文庫化です。文庫化って「文庫落ち」とかいう言葉もあって、なんだか悪いことみたいなんですが、でも本当のところ単行本のうち文庫になるのって本当に少なくて、そしてそのうち品薄になり、絶版になることだって悲しいけれど本当によくあることで、だからこそ文庫になるだなんて嬉しくて仕方がありません。ありがとうございます。私には「落ち」どころか「昇天」の騒ぎ!!うれしいです。
もともと「空が分裂する」は別冊少年マガジンの創刊時から始まった詩の連載を中心にまとめた本で、押見さんの「惡の華」と一緒に2年弱、掲載されていたのです。あの漫画は詩集「悪の華」がストーリーの軸に存在しているので、こうして文庫版の表紙を描いていただけること、嬉しいですし、不思議な縁を感じます。きっといい本になるので8月末を一緒に楽しみにしてくださると嬉しいです。
   
ときどき「〜〜はマナー違反です」という張り紙を見かけてそれにはなんとも思わないのだけれど、このまえ「〜〜はルール違反です」という張り紙を見かけて、もうそれなら「違法です」とか「処罰される可能性が有ります」とかのほうがいいんじゃないかと思ったり、したり、「マナー違反」と空目するような「ルール違反」という言葉に不要なマイルドさを感じたのでした。注意事項にまで及ぶオブラート。その優しさはなんなんでしょう。大阪の「痴漢あかんで!」みたいな、そこにダジャレ挟む暇あるんや…!みたいなのにベクトルは似ている気がするし、きっとそう言われたらいやなんだろうな、という気品の高さを感じる。でも、むしろ「あ、ダジャレ言いたかったんだな…」って書き手の意図がわかる分ダジャレの方がマシな気がぼくはしているわけです。かしこ。
   

XYZの交通標識

先日、私の小説作品が結構内容・文体ともにばらばらなので、文体と物語についてグラフにしたのです。別に分析したからといって、どのへんが一番とかは特にないかんじです。そしてSHARPとPOPは私にとっての偏ったSHARP&POPなので、一般的な定義ではないわけですが。そうして、このグラフには見えないZ軸があって、つまり近いように見えても似ているわけではない、という話なのです。
   
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そして本当の意味で重要なのはそのZ軸であって、でもたとえば第一印象をクリアしなくちゃそのひとの本質的なものに触れることもないというような事態のように、X軸とY軸は本質的ではないけれどとても重要なことだと思うのです。だって、商品だし。お金と時間を消費して手にするものだし、作者名だけじゃわからない部分をとりあえずジャンル分けというか分布図作ってみましたので、「このまえあれ読んで結構好みだった」って方はその近く、「あれは好きじゃなかった」という方はその遠く、を、読んでみようかな、って思ってもらえたら嬉しいなって、思ったりしちゃったり。(ジャンルを意識して作ったりはしないのだけれど、でも読み手として新しいなにかを探しているときに確かにちょっとした交通標識にはなっていて、私がこのグラフに従って、それを基準にものを書くことはないのだけれど、でも、読む人を考えたときに、作ってみた、って次第です。)そもそも前も読んだのに次も読もうって思ってもらえたなら私はもう嬉しくて「うおおおん」って思っちゃうし、手放しありがたし、だからこそ、少しでも嬉しい読書体験を作れたらいいなと願うのです。もちろんそれはなんだか図々しいことのように思うし、それにもっとやりかたがあるのではとも思う。けれどまあ、こんなかんじでもがいています。作ってみた系です。
   

植物が緑色!と叫ぶ季節。

とにかく暑いしそういうことを書くと、もう季節に溶け込んだ考えることもできない人間だと思われるかもしれず、ぐぐっと堪えるけれどでもやっぱり暑い。本当、雨とか熱とか、やめてほしい。腐らせる一方です。なにもかもを。
冬は本当に素晴らしい季節で、ああやって寒くて乾燥をした世界の中で、こたつに入ってぼんやりと寒いとか思っていたい。太陽に落ち着けって伝えたい。夏のいいところは植物が緑色!って叫んでいることで、緑色!って叫んでいる植物をただ眺めることだけが夏のいとおかしである。ああ。
    
アイドルグループの「あヴぁんだんど」さんに歌詞提供をしました。歌詞を書いてみたいとはずっとずっと言っていたのでこうしてパワフルな女の子たちに言葉がかけて本当に嬉しいです。あヴぁんだんどは、「見捨てられたアイドル」というキャッチコピーで活動しており、今回の新曲お披露目がちょうど1周年でした。おめでとうございます。私は歌詞を書く前にライブにお邪魔して、それで4人のパワーというか元気というか、もう「強さ」そのもののパフォーマンスを見て、全てを吹き飛ばされるような気持ちになりました。爽快でした。で、そのライブの直後、2秒後ぐらいにiPhoneに即書いた歌詞が今回の軸です。(というかほとんどそのものです)「見捨てられたアイドル」というコンセプトを中心に書いています。作曲は佐々木二郎さん。とても可愛い曲になったので、ぜひ、ライブなど遊びに行ってみてくださいね。そういえば、あヴぁんだんど、夏の魔物にも出演決定したみたいです!おめでたいー。
作詞した曲は「点滅ばいばい」というタイトルです。このgifアニメは私が勝手に作ったものです。点滅しています。
   


「点滅ばいばい」
 あヴぁんだんど(作曲:佐々木二郎 作詞:最果タヒ)
   
街 星 海 友 夢 歌
過去 今 明日 きみ パパ ママ
なんだって、だれかに、見捨てられて
夏 秋 冬 春 暇 月
雨 晴れ 風 きみ きみ ぼく
なんだって、だれかの、嫌われもの
   
歌え 深夜
消える ひかり
いつか
きみも点滅
さよなら
   
見捨てられ 強くなるなんてバカみたいだね
LOVE ME & ほっとけ
だれにも、嫌われたくない
なんて言う子
北極に放置したいな
   
ただ 好き 恋 愛 星 夜
朝 昼 きみ 好き ただ ぼく 
きみだって、ぼくすら、忘れてゆく
   
大事 だから
大事 なのに
いつも
こころ点滅
チカチカ
    
好きだから 忘れないなんて夢見たんだね
さみしい はぐれオットセイ
ぼくはぼくを見捨てられない
なんてホント?
南極に逃避したいな
    
東京の
夜景はいつも建設途中
残業きらり
かすむ ぼくらの夢
   
見捨てられ 強くなるなんてバカみたいだね
LOVE ME & ほっとけ
だれでもかならず
ぼくのこといつか忘れちゃうよね
LOVE ME & ほっとけ
だれにも嫌われたくない
なんて言う子
北極に放置したいな
したいな
したいな

歌詞のお仕事は本当に刺激的で、そうしてとても楽しかったです。今回は基本的に詞先、そして一部曲先で作りました。どちらもおもしろかったな。なにより、ライブで彼女たちが歌って踊る姿を見て、そのパワーが直後そのまま言葉になったのがダイレクトで書いていて楽しかった。歌う人がいるということ、それは生まれてくる言葉にとってとても幸せなことで、たぶんだからこそ、一気に書けたのだと思います。そうして書いた言葉に曲がついて、音によって言葉に時間軸が生まれ、さらにそこに言葉を書いて、と、景色がぐんぐん広がっていく、というか育っていくのが書いていておもしろかったです。これからも歌詞のお仕事、チャンスがあれば続けたいなと思っています。るるる。
   

雨は、停止すれば星にも見える。

どうでもいいことですがパンをきらきらさせる絵文字に凝っています✨🍞✨(表示されない場合はパンがキラキラしている状況を想像してください)この無意味に誇らしげなパンの姿…!かわいい。と、いうようなことをツイッターに書いたらそれなりに反応があってみんなで「わあ、パンかわいいね、うふふ」ってほくそ笑むかんじになったし、神戸はパンの町です。あとケーキの町です。パン屋が大量にありすぎて、本当に小さな町にもだいたい3件くらいはあって、どこかがつぶれは新しく出来上がり、ケーキ屋とかはたぶん5件ぐらいあるしこっちは本当に覚える前につぶれては新しくできるし本当にパティシエ殺戮兵器みたいになっている、この街。小麦粉消費量日本一なんじゃ、と思ったけれどよく考えたら隣が粉もん帝国大阪だった。とにかく神戸はパンをこよなく愛しており、あちこちにパン屋があって朝はパンを焼く匂いがただよい、低血圧大魔王だった私は学生時代真っ青な顔をしながらその無駄に明るい匂いに囲まれて、「パン死ね…」とよく思っていました。パン。今も普通の食パンとかよりは焼きそばパンとかが好きです。本質的なパンを許せないというか(なんだこの日本語)、口の中の水分を保護したいタイプなので、芋・パンに対する敵意があります。
   
さて久しぶりの更新になってしまいました。本当に、本当に久しぶりになってしまいました。この季節はなにもかもがぐったりとして、本当にここ数日は大量に眠っては「うぐぅ」と呻いている。寝ると疲れが取れるのって、本当子供の頃だけだと思いますよ。寝すぎて体が重くて死んだ目をしていることが時々あって、そういうのってなんなんでしょうね。つじつまあわなくなってますよね、生物として。あと食べ過ぎで体だるいとか、気持ち悪い、とかも本当に生物として壊れかけ、ってかんじがして悲しい。生きることとははつらつとすることだと思うんだけれどなかなかうまくいかないよね。
   
マームとジプシー「cocoon」、観たのです。もうとにかく青柳いづみさんが…すごかった…。登場する彼女たちはとても懐かしいかんじがして、それはきっと私も女子だったからなんだけど、本当ならゆっくりと忘却されていく会話たちが、死の断絶によって、一瞬で消え、痕跡、になってしまうこと。今日マチ子さんの「cocoon」原作はかわいい絵でありながら、生々しくあるべき部分は容赦なく生々しく描かれていて、それがきっと、「それでも生きること」そのものだったと思う。死んでいくこと、蛆虫、銃弾。そんな「今」と、それでも生きて、いつか恋や子供を産むことだってあるかもしれないという「未来」がまだ消えずに、見えているということ。どのような地獄が目の前にあっても、幻のような夢のような「未来」は存在し続けること。そうした地獄と幻の共存。それがマームとジプシーの舞台にもはっきりとあって、それが美しくて、とてもよかった。それから、青柳いづみさんの演技。命とは「声」のことかもしれないと、思わされた演技でした。
    

読むわたし、書くわたし、その他。

「書きたいもの」と「書けるもの」と「読みたいもの」が一致するというのは大変しあわせなことで、私は自分の詩とかあんまり好きではない。単純に自分が書いてなかったら読んでないだろうと思う。小説も、なんというかブレのない文体というか整列している言葉の方が好きで、海外文学の翻訳文がすき。アーサーCクラークとか。情報として言葉を追っている方が物語に集中できてしまうのです。もちろん、文体の美しさ単体を鑑賞することはとても好きなのですが、そこを味わい出すと物語を追わなくなるというか、1ページの同じ部分を何度も読んだりとかする方が楽しくなってしまうのですよね。実際そうやって読んだ本がとても多いですし、そういった場合も私に似た文体よりはもっとスマートなものを好んだり。そんなこんなで、私は「読みたいもの」「書くもの」がほとんど一致したことがないのです。
書いた印象と読んだ印象というのは必ずと言ってずれていて、たとえば村上春樹さんの小説には「やれやれ」がたくさん出てくるようにいう人がいるけど実際はそこまで多くなかったりする。読んだ人は読んだ印象でぼんやりと文章を把握するから、強い印象の部分は比重が大きく見え、実際の文章のバランスとは違った認識をもつ。だからこそある文章にあこがれ、それを模倣して書かれたものって、なんでしょうね、ちょっと濃口になるんですよね。オリジナルより癖が過多になるのです。それはなんだか「読む私」が書く行為にまで侵食する、というか、客観を失うどころか主観すら失ってしまいそうな危なっかしさがある気がしました(それをうまくコントロールする人ももちろんたくさんいるのですが、かなり強い個性と理性がないと難しいのではとかって思います)。なのでつまらないところや、困ることもありますが、私は案外「読みたいもの」「書くもの」がずれている現状をラッキーと思っているのです。
  
さて、今日発刊のフリーマガジンhonto+7月号で、小説新連載「完全犯罪請負人・臼田真二朗」がはじまりました。むかしに「こんな設定のお話があったら読みたいなあ」とかっておもっていたお話を今になって自分で形にした作品です。そう、「読みたいもの」を書いたのです。書き始めたのはかなり前で『星か獣になる季節』とか『ぼくらは殺意日和』とかよりも前でして、小説といえば詩小説的なもの(「宇宙以前」はちょっと違うけど)を書くことがほとんどだったこともあり、読者としてかなりエンタメが好きな私と、書き手としてまったくちがうものを書いている私の間に、完全に線を引いていたわけですね。そんなときに作家エージェントのコルクさんとお話しする機会があり、小説を作ることの話をして、あ、そうだ、自分であのアイデアを書いてみたらいいんじゃないかと思ったのです。インタビューなどでよく話している「物語を意識するようになった」というきっかけは、この小説を書くことで生じたもので、自分が読みたい物語を、自分が書ける文体で書く、という今のやりかたはここで定着しました。小説はある程度長くなるとやはり物語が軸になり、そうしてその物語にひっぱられていくように言葉が出てくる(私の場合は)。そうであれば私は読みたいと思う物語をそこに用意しておかなければ走りきれないなあ、と気づいたのです。今まで「読む私」という存在は、こうした作業には完全に不在だったわけですが、そこではじめて、その「読む私」が必要になったのです。電話して、「いまからこれるー?」ってなったわけです。「読む私」が読みたい物語を用意する。そうして「次はどうなるの?」という気持ちで、好き勝手な文体で書いていく。そうやってみたら、まあ単純に、とても楽しかったのです(あとすぐ完成した)。普通ならこんなのは当たり前すぎて、むしろ読みたい物語のためにペンをとるものじゃないの、ぐらいの感じだと思うんですけれども……私はそのときやっと、基本中の基本の「動機」を手に入れたんだろうな、と思いました。文体に関しては、「自分が読みたい文体」を書くのはまあ無理ですが(文体なんて呼吸法みたいなものなので、そこをコントロールするのは不器用な私には無理です)、だからこそ、なんていうか侵食を抑えめにできているのかなあ、とかって今は思ってます。
   
ということで、連載、ぜひよんでくださいね。紙版は丸善・ジュンク堂・文教堂で、電子書籍版はhontoのサイトで手に入ります。どちらもなんと無料ですぞ!(黑田菜月さんの写真といっしょに載ってます)

五月雨のこどもたち

私は五月雨メールの鬼であり、送信ボタンを押すと新たに用件を思い出すというすばらしい脳の持ち主なのですが、ぶっちゃけこの季節の雨を見ていてたら(五月雨の五月は旧暦です)、いくらなんでもここまでメールぱらぱらはさせませんわー、とか思うので慰められる。あとあとであっても思い出すんだからいいじゃないか、思い出さないと事故になるだろ、仕事上。とかって思うわけで、私の五月雨病は治らない。
   
そういえば前にDSをぽちぽちして外に出たら、子供に話しかけられて(同じゲームをしていたらしい)、「おれなーこれなーなんとかかんとかでなー」って軽くネタバレされたあとに、「youtubeでなーいろいろ攻略のなー動画見れるでー」って言われました。私が子供にどう考えても同世代の遊び仲間だと思われていることは気にしないとして、いまどきの子供は動画でゲーム攻略を見るんですね。すごいな、ネット検索とかじゃないんですよ、動画なんですって。動画が情報の主流になりつつあるのかな、なんてことも思いました。子供よ。動画なのか、ネットといえばきみにとっては動画なのか!おねえさんのころはテキストだったよ!ていうかたいていのひとはまずテキストから入るんじゃないのか!でもきみにとっては、チャンネル変えたら番組が変わるという存在で、つまりテレビと同じなんだね。現実的に考えるとかなり小さい子だったので、文字追うとか、検索でひっかかりやすい言葉を考える、とかだと、年齢的に限界があるんでしょうし、逆にyoutubeで動画チャンネル追うぐらいならなんてことはないってことなのでしょう。しかもぼーって見てたらわかるし。うーむ、動画が子供にとってインターネットの入り口になっているだなんて思いもしなかった。どこまでいっても言葉が軸になって(検索とかね)いるものだと思ってた。でも、なんていうか、チャンネルなんですね、そして動画なんですね。検索とかじゃないんだなあ…。(動画も検索はできるけれど、そこに内包された情報全てが言葉として記録されているわけではないし、細かい情報は検索できない。)言葉の重要性がきえたあとのインターネットには少し興味があります。言葉は共通であり、定義が明確だったから、ぐちゃぐちゃの情報のなかの標識になりえた。でも、それでは追いつかなくなった時、どのように人は、情報の海を泳いでいくんだろう。(などと考えたくなるのは雨だからです。暇だからです。)