友達はいらない

7月は小学校の時の友達の誕生月で、ふとした時に思い出すけれど、その子とはすっかり縁が切れてしまっている。人とながく付き合うというのはそれだけでも大変なことで、奇跡だって言えるのかもしれないけれど、ぶつんと切れた縁だって、それはそれでいいものだと思うのだけれどどうなのだろうな。彼女の性格だとか顔だとか、もうすっかり忘れてしまって、あのへんに家があったとか、それぐらいしか思い出せない。寂しいという言葉をここにあてはめるのは、なんだか傲慢だとも思う。もう会うことも話すこともない、友人だったひと、という存在は、閉館してしまった故郷の美術館みたいに、私の中できらめいている。
   
ひとというのはさようならしていくのが自然の流れだと思うし、永遠になかよくしていられるというそういう勘違いで得られるのは安心でも、平穏でもないような気がする。しんどいよ。一人で生きていけるとかそういうことは別に思わないんだけれど、かといって、たくさんの人にやさしくされながらじゃなければ生きていけないとも思わない。美味しいものを食べる日もあればそうでもない日もあるぐらいに、人間に対しても気まぐれでいいとか思うんだよな。尊重するべき、って散々言われるんだけれど、でも、私はやっぱり他人のことを自分と同等の存在としてみることはできない。だって、自分と違って内面も聞こえないし、感情すら表情でよみとらなくちゃいけないし。疲れるよ。なんだあの生き物、っていつもおもう。人間は、人間ですらちょっと消耗品として触れている所があると思うよ。だから、遠くなっていくことも、近くなっていくことも、好きな分量で決めてしまっていい。私は今はそう決めている。とても親しいと思う友人とは、本当に2年に1度ぐらいしか連絡を取らずに、最後にあったのは3年ぐらい前だった。その子とはたぶんまだ切れてないけれど、まあそんな態度だし、そのまま切れてしまう縁というものに、さみしさなんて感じるのはあまりにも身勝手だな、と私の場合は思ってしまう。っていうかさみしさなんて別に、そこにはないな。そもそも。そういう関係性は薄っぺらいっていうひともいるけれど、薄っぺらいのがちょうどいい人もいて、それがたぶん私。みっちり、ずっと一緒に居なきゃいけないなんてただの地獄じゃないですか。
  
「さみしい」という感情に、だれかがそばにいるかいないか、なんていうのはたぶん、まったく関係がない。自分が楽なリズムで、孤独になったり、孤独をやめたりできるのかっていうことのほうがずっとずっと重大だと思う。自分の都合の良さみたいなものを、どれぐらい保てているかっていうこと。冷たいこと書いているって言われそうだけれど。私が一番寂しいと思ったのは学校に通っていた時だったし、やっぱりそれは疲れ果てたからだった。クラスメイトと毎日顔を合わせて、何人もの友達がいて、親しくしていたし、なんの問題もなかったけれど、掘り起こされていく孤独みたいなものはあった。家に帰っても、眠っても、どこまでも誰かとの関係性っていう揺れ動く水面みたいなところにしか立つことができなくて、「私」が日に日に曖昧になった。そんなところで一人で考えたりしてみたって、結局他人から切り離した結果の「一人」として存在するしかなくて、なんか生まれた頃とは違っている。明らかにニュートラルではなくなっていた。自分というものがもっと大きなものの一部分としてしか機能していない感覚。それなのに、私は私を中心にしか見たり聞いたりできないしさ。そういう自分が他人のものになってしまったような気持ち悪さが、当時「さみしさ」として身体中にはりついていて、ああ、友達いらない、と本気で思った。いらないって、言ったって、0にしたいわけじゃないんだけど。
人にどれぐらい近づいていられるかとか、一緒に居られるか、というのは本当に、ただの性格の問題だと思う。私はほっといてほしいと常に思っているし、そういう態度が心地よいと思ってくれる人じゃないと友達にもまずなれない。ということで、学校の友達とかほとんど縁は切れているし、まあそういうものだよね、とどうしてか冷静でいる。「さみしくない?」って言われることはあるんだけど、昔に比べて、さみしさを感じることなんてほとんどない。人付き合いが悪い、とか、あの人は人間嫌い、冷たい、みたいな扱いをされることもあるんだけれど、別に人間といっしょにいることすべてが辛いわけでもないんだよなあ。めんどくさいときはめんどくさい、というだけだった。他人はそうでもないのかな。人とずっと一緒にいるのが平気っていう人ばかりなんだろうか。たぶん、私は、誰とも接点がない、孤立した生活、というのをしたことがないから、ひとりぼっちというものに対して恐怖心がないんだろう。そのぶん、必要以上に誰かと一緒にいるのがめんどくさい。それだけの話。「冷たい」という言葉は多分価値観の不一致によって生じていて、だとしたら私もこの人のことを「冷たい」と今思っているんだろうか。まあ思っているからこそ「めんどくさい」なのかもなー、とか考えたりする7月です。
   

きみが友達との楽しい時間のために、ひねり出した悪意について。

本屋さんで友達同士っぽい3人組が、棚に並んだ漫画について悪態をついていく、というシーンを見てしまった。最初、「そんなに仲良しではないのかな? 10年ぶりにあったとか?」なんてことを思って、それからなんだか悲しくなった。悪意に対して耐性がないわけじゃない。悪口ひどい!っていうかなしみでもない。絵柄や帯文に対して「こんなもん誰が読むんだ」「なんだこの帯文!」と、彼ら、とてもとても楽しく時間を過ごしていて、そうだよね、悪意はいつだって楽しいよね、とぼんやりと思う。悪意さえあれば、互いに踏み込むこともなく会話をトントンと進められる。彼らは本屋に一人で来ていたなら、こんな悪態はつかないし、そもそも興味もない漫画をわざわざ見ようとは思わないのかもしれなかった。友達と簡単に楽しい時間を過ごすために、漫画を一つ一つ指差して、悪意をひねり出していただけだ。最初からその人たちの中にねむっていた本質的な悪意でもないんだ。そのことがなんだかしんどかった。
悪意があることを否定したら人間が人間であるその意味も、もはやなくなるだろうと思う。別に、悪意を隠してほしいなんて思わないよ。人間が抱く「悪意」は、善意や優しさや思いやりよりずっと、その人の本質に根付いていると思うから、そうしたものを見せ合うことはむしろ好きだ。友達の嫉妬だとか怒りだとか、そういう悪意を見るのはおもしろいし、嫌いなものに対してずばずばと怒りを表明するその姿は、可愛い犬にはしゃいでいるときよりずっと「その人らしい」とも思う。でも、こうした暇つぶしだけのためにひねりだした悪意、本心でもなんでもない、2秒で忘れてしまうような悪意には、その人の人間性すら宿っていない。歩いている蟻を指先ではじいて時間をやりすごしているだけの、それだけの感覚。ただの惰性だ。そこまで嫌いでもないけど、自分とも友達とも関係がないから、見かけたから、すれ違ったから、そんな感覚で適当に悪意をぶつけていく。自分が悪者にならない範囲で悪意をエンタメとして消費するのは、なんか不気味だなと思ってしまった。そこまでする理由が、友達と楽しく時間を過ごしたいから、それだけだというのは不思議でもあった。他人との会話に娯楽性なんて必要だろうか。でも、もしそういう感覚でいるなら、どうでもいいものを痛めつけるのは一番楽な方法なのかもしれないね。いい話をするより、心温まるストーリーをするより、ずっと簡単に娯楽になるから悪意は話題のテーブルにひょいひょいとのせられる。本気の悪意を人とやりとりするのはどこまでもめんどくさいし、そもそもしんどい。自分が悪者になるのはいやだ。だから、すれ違いにどうでもいいものを痛めつける。自然なことなのかな。どうなんだろう。
   
悪口って楽しいんですよね、と女の人がテレビで言って、なんて正しいんだろうと思った。悪口を言うのは、悪意がとめられないわけでも、悔しくて仕方がなくて慰めて欲しいわけでもなくて、ただ楽しいからだろうし、それを了承した上で、悪意を垂れ流してつくられるコミュニケーションは、その場にいる人は誰も傷つかない最善手なのかもしれない。テレビに出ている人についてさんざん悪態つく人もいて、このひとは私や他の友人がここにいなくてもこんな態度でテレビを見るんだろうかと不思議だった。私たちがいるから、私たちと楽しく会話をしたいから、テレビに出ている人を悪く言うのか。それぐらいの距離感が、踏み込まないでやりすごすだけの距離感が、その人にとってはちょうどいいってことなのか。この場を楽しくしなくちゃって、焦っちゃうぐらい、私たちは仲良くなかったんだっけ?
友達と過ごすのは、「退屈な時間」ぐらいでちょうどいいとか思ってしまう。私はエンタメじゃない、ってずっとずっと思っていたし、会話しているけど、この会話におもしろさなんて求めるのはおかしい、だったら映画館でも行けばいいって、どこかで本気で思っていた。どうでもいい存在を、適当に、すれちがいざまに痛めつけて、どう、楽しいでしょう?とこっちを向いたその人たちは、別に自分を悪人だと思っていなかった。優しさだったり気遣いのふりすらしていたのかもしれない。それが、たぶん不気味にみえていたんだろう。「きみはひどいな」って笑うこともできないし、優しさとして差し出された「悪意」を、どう受け取ったらいいのかもわからない。ポテチは体に悪いっていう、そういう雰囲気を見た目からして出していて、でも、だからこそおいしいんだよね。悪意だって「悪者」ぶっているほうがずっとずっと濃い味がした。その人とやりとりしている、実感があった。だから私は、だらしなくテレビ見てジュース飲んでケーキ食べて、それぞれ内側にある、その人だけのどうしようもない最低な部分を見せ合って、呆れて、それだけで、時間を過ごしていたい。「楽しませる」とかそういうのは、友達なんかの仕事ではない。
   

わたしは24時間

昔から詩を仕事という認識で書いているので、詩人という言葉の職業っぽくないかんじはなんかぴんとこない。私は食べるため着るため暮らすため、つまり主に洋服とチョコレートと家電のために原稿を書いている。普通のサラリーマンと同じ感覚なのに、「詩人」という言葉には生き方そのものを規定しているような、そんな無駄なだだっ広さがある気がするの。
だいたい「人」ってなんだよと思います。肩書きに「人」っていうのがまずなんらかのおかしさを宿している。人種やないか。職業ちゃうやんけ。小説家や画家というのは仕事という感じがする。その人自身をあらわすというより、そのひとの勤務時間に名前をつけている感じ。当然仕事をしないオフの時間が用意されている。でも、「詩人」という言葉は、働き方というより生き方を指しているように思う。あたりまえのように私が24時間「詩人」であることを表しているように思うのです。
でも詩を書かない時間だってあるし、というかそんな時間がほとんどで、もちろんすべてをポエジーな目線で見つめているわけもない。そんなことしてたらシンプソンズとか楽しんで観れないぞ。人間であることそのものに「詩人」というタグを付けられてもね、という気持ちにはよくなるのだった。
   
そういう話を取材を受けているときにしたら、記者さんが「芸人」とかもそうですね、とおっしゃっていて、そういえば芸人さんも24時間芸人であることを求められがちだよなーと思う。道端でボケをもとめられたり、普通の会話でおもしろさをもとめられたり。彼らにとって芸というのは商品であって、そしてサービスであるということが、「芸人」という言葉で薄められているのかもしれない。そして、もしかしたら、24時間面白い人であるはずだ、と期待されることは、彼らがエンターテイナーとして信頼されている証なのかもしれなかった。それぐらい自然な「おもしろさ」だったっていうことだもんね。24時間おもしろいに違いないという期待は、彼らが見せた夢が現実となった、その結果かもしれないな。
そんなふうに他者のことなら思えてしまう。人間とは勝手ですね。そして、だからこそ「詩人」であることを受け入れるのも私の仕事の1つなのかも、と思うのだった。そう思ってもらえるのはありがたいことでもあるさ。だから、まあそのうち。まだ慣れないけど、まあそのうち。
   

好きなものなんか。

自分の好きなものをひとに教えるということが、どうやっても好きになれなかった。なんでそんな個人的なことを話さなくちゃいけないのか、尋ねられると昔は苛立ちさえした。好きな音楽をプロフィール代わりに列挙することや、尊敬する人物を紹介することで自分を説明することが、恥ずかしくて怖くてどうしてかできない。そんなものは自分の話でもなんでもないし、ただの他人からの借り物の寄せ集めじゃないか、それでどうして自己表現になるの? そう思ってしまった。個人的で、それでいて他人に話すべきでもなさそうなさりげない情報だということ。友情や敬意を打ち明けることや、祝福の気持ちをさらけ出すことはいくらだってしたい。でも、私の好きなものなんかをどうしてきみに伝えなきゃいけないんだ。好きな音楽が誰かと一緒であったとしても、どうやって喜んだら良いのか私にはよくわからなかった。
   
好きなものというのは、とても私的であるように思う。私は他人とご飯を食べたり、一緒に映画を見たりすることは好きだけれど、他人に対してその人と共有もしていない自己をさらけ出す意味がよくわからなかった。自分の「好み」の情報を開示することで、私はなにかが満たされたような、そんな気持ちになるんだろうか。そうだとしたら、それはひどく気持ち悪い。自分が何を好きなのか知ってもらうこと、それを覚えてくれていることがふとした拍子に判明すること、そういうのは一般的に「みずみずしいコミュニケーション」なのだと知っている。でもなんでそんなところでみずみずしくならなくちゃいけないの。好きなものは、やっぱり好きなものでしかなくて、わたし自身のことではない。それでいてわたしの内側で完結しているものなんだ。お互いが「これはどういったものなんだろう?」と思っている食べ物を一緒に食べたり、「これおもしろいのかな?」って一緒に新しい映画を見に行ったり、そうやって他人と時間を共有するのが好きだ。他者と時間を共有するのは、新しい世界を知ることだと、どこかで信じている。私とその人たちの内側に、まだ落ち着いてはいない風みたいなものを一緒にあびることが、「共にいる」意味だと思っていた。だからわたしの中にあって、もう苔だって生え始めている情報を、持ち出したくなんてなかったんだ。
それでも、好きなものを教えてくれる人は周りにいて、私はそうした話にうまく相づちが打てないでいた。私は、他人の「好きなもの」話が嫌いなわけではないけれど、でもやっぱりどうリアクションをするべきかがわからなかった。そのせいで「きみは私に興味がないでしょう」と相手から言われることは多く、申し訳なくて前かがみになって、そのまま前転でもして家まで帰ってしまおうかと思う。ひとと話すことが嫌いなわけではないし、ずっと一人でいたいなんて思っていない。知らない場所で時間を共有するのはむしろとても楽しいことだとも思う。(私はよく知っているお店とかに友達といくよりは、まったく謎の店とかに友達といくのが好きです。)でも、私自身、自分の好きなものを知って欲しいと思ったことがないから、どんなリアクションが必要なのかわからなかった。悲しそうな相手を前にして、少しだけ、「どうしてこの人は、悲しい気持ちになるかもしれないのに、そんな話を私にしたんだろう」とも思う。私はそういう相手のつれない態度が怖くて、だから、「好きなもの」なんて打ち明けていなかったのかもしれないね。だから、相手のしたことが不思議だった。とても申し訳ないとも思ったし、それから自分のことを残念に思ってしまった。
  
たぶん、彼女たちと私は、おんなじなのだ。お互いに、そこまで関心はなくて、そして「好きなもの」を教えるリスクも承知している。「そんなのが好きなの」って否定される可能性だってある。相手が私みたいにうまくリアクションをとれないことだってある。そういうときのさみしさは、やっぱり、一緒に見た映画が「おもしろかった」「おもしろくなかった」で意見が割れるときよりもずっとずっと独りよがりで、本質的な孤独がある。私はだからこそ、他人に話したくない。そして、彼女らはだからこそ、私の薄い反応に、悲しんでいた。たぶんそこしか違いはなかった。
どうしてこんなことを話すんだろう、と思ったのは私が単純に、優しくなかったというだけで。彼女たちだって本心から「聞いてほしい!」というわけではなかった(多分大多数は)。それでも、私とこれから時間を共有していくために、まずはきっかけとして、会話をはじめるために、自分の内側からちょっとした話題を引っ張り出してきたにすぎない。たぶんね。でも、きっとそう。リスクもしかたがないやって、思った瞬間がきっとあって、それから歩み寄っていたんだろう。彼女たちはそれぐらい、優しかったんだろうなと思う。私はずっと他人に対して、嫌いではないけど、優しくもしたくないな、みたいな感覚で生きていて、それはたぶんリスクをとるのがちょっとしんどかったからだ。今だって別に私は優しくないし、一番の友達の好きな食べ物もよく知らないままだ。そのせいで、たぶん友達も少ない。でも、そうした優しい人たちの気遣いに気づけただけで、私はその人たち自身のことを、前より少し好きになれる。
   

季節も私の一部分

季節の変わり目に化粧品売り場に行くことが、いつのまにか当たり前になっていた。
化粧品なんて顔を修正するためだけのものだと思っていた私には、しばらく、緑だとか黄色だとか真っ赤だとか、そういう本来なら顔にあるわけもないカラーをのせることが不気味で仕方がなかったけれど、いつのまにかそんな感覚を忘れている。季節の変わり目には、新しい口紅の色やネイルの色を選びたい、見つけたい。欠如した頬の赤みを補うだけがチークだけではないし、彫りのたりないまぶたのために、影を演出するだけがアイシャドウではない。唇の赤みよりももっと、真っ赤な口紅があったっていいのだと、今なら思う。
化粧品の中で一番に、抵抗があったのは口紅だった。唇がすでに赤いのに、どうしてそんなものを塗るのか、十代の私にはわからなかった。当時はリップグロスが流行っていて、口紅ほど露骨に「塗る」という感覚がないからか、私はそれを気に入って、なかなか口紅になじまなかったというのもあるのかもしれない。血ですら表現できないような赤色を唇にのせるのは私にとって不気味で、きっと永遠に理解できないだろうとその時は思っていた。自分の顔のために、自分の顔の可能性の中で化粧をしていた。その頃、私はきっと自分とは、「自分の顔」、それから「体」それだけを指すのだと思っていた。
   
自分が世界の一部分であることに、本当の意味で気づいたのはいつだったかな。とおりすぎた木漏れ日から落ちてくる、あの黄緑色も私の一部で、そうして私の瞼もまた、世界の一部分であるということを、今は当たり前のように思う。だからこそ、顔に緑がかったアイシャドウを使うことも、当たり前のことになった。星の色。ネオンの色。そんな色が私の顔に灯ることも当たり前のこと。私の肉体には存在しえない赤色も、オーストラリアの赤土にはあるのかもしれない。そんな色を選択できる、ということ。特別なことではなかった。私はいつだって背後に風景を持っていて、その風景は要するに世界だ。世界の色を背負って立ち続けるなら、私の肉体になかった色も、この皮膚には与える事ができるだろう。
20代で、洋服に合わせて化粧品の色を変えるようになっていた。この色を着る日は、この口紅。その時、私は自分という存在が、顔だけでも体だけでもなく、洋服そのものまで及んでいると思っていた。たとえ血が通っていなくても、ただの繊維であっても、洋服を着た私が「自分」なのだと思っていた。今、その範囲が広がって、季節や天気そのものまで飲み込んだ「自分」を私は認識している。だからこそ、夏が来たら新しい化粧品を買おうと思う。私のためだけでなくて、世界が変わっていくから、その変化を共にする色を、探しに行こうと思う。季節は私の一部分。それだけの話。
    

すべてのヒトはちょっとフィクション

人生を狂わされているように見えるのか、それとも狂わせることすらその人自身の意思として見えるのか。スターみたいな人はたいてい、そのどちらかであるように思う。たとえばの話。編集さんとAKB48の話をかなり昔にした時に、前田のあっちゃんについて私は気づいたら「なんか"人生!"って感じしますよね」と言っていた。それまでそんなこと、考えてもみなかったけれど、それでも、口から飛び出していた「人生!」。あっちゃんには典型的すぎるほどに「人生」を感じる。スターであることも、ここまできたことも、この人の人生が狂わされていくその様を見せてもらっている、その一幕のような気がしてしまう。実際がどうかなんていうのは関係なく、そんな印象を受けてしまう。もちろん、これはいい意味で。他人の人生にこの言葉を使うのはどうかと思うけれど、「ドラマ性」が強すぎた。
   
人の魅力なんていうものはどういう要素で構成されているのか、私にはわからない。それでも、どこかで「人間は案外つめたすぎるぐらい冷静に、他人を見ているのではないか」と思っていて、だからこそ他人のことを「フィクション」として見つめる部分はあるはずだと考えている。だいたい他人に、美醜や善悪や幸不幸やらで値踏みをすること自体が、他人を自分と同じには見ていない証拠だ。多分全ての人間は、完全ではない。全ジャンル満点を取れる人はいない。それでも、平然と生きている。他人と会話をするしご飯を食べるし、自然を壊す。それは別に悪い事じゃないと彼らは思っている。それなのに、自分が満たせていない条件を他人に課して、値踏みをする。それは自分の同じ存在だと他人を見る事ができていないからだと私は勝手に思っている。
だからこそ、他人の人生は、どこかで「フィクション」なんだろう。友達が誰かと結婚したという話や、知り合いが三角関係だとかいう噂話を、酒の肴として消費してしまえる。テレビに出ている人なんて特にそうだ。街で一般人に「本当にいるんですね」って言われる芸能人は結構いるって話だけど、その感覚はもう仕方ない。これは全部悪い事でもなんでもなくて、しかたがないことだ。私たちは思っている以上に他人に冷淡だ。最低だ。想像力は命まで及ばない。それはもう仕方がない。悲しいことではあるけれど。
そして、だから、人生の「ドラマ性」はときに魅力に転じるのかもしれない。ドラマ性。それは「ふりまわされっぷり」だけで構成されるわけではなくて、逆に、「ふりまわされなさ」で構成される事もある。たとえば山口百恵さんは、なるべくしてなって、そして時期が来たのでやめた、というだけにしか思えない。あっさり引退してしまったというのも大きいのかもしれないけれど、明らかに特殊な人生を歩んでいるのに、それすら彼女の手の中からはみだしていないような印象がある。人生とは別枠の時間軸で、彼女はステージに立っていたのではないかと思える。いわゆるサブ垢みたいなかんじかな。でもだからって魅力がないわけではなく、彼女の「現実」ではなく「夢」を、消費していくことにたぶんドラマ性が生じていた。振り回されているのか、そうでないのか、は問題ではなくて、そのどちらにしても極端であることこそ関係があるのかもしれないね。
       
振り回されている人を見ると不器用なのかな、とも思うけれど、でもあんまりにも振り回されていない人を見ると、それはそれで不器用だな、とも思って、適度ならば振り回されることは身軽さの証で、そして振り回されない事は安定の証だ。そのどちらが異様なほど欠如しているっていうのはどっちにしたって不器用だな、なんてことを友人たちを見ていたりすると思う。そしてそんな視線は、客観的な物言いは、ちょっと冷淡すぎるんだとも知っている。でも、彼女たちの不器用さを、魅力だと、あるいは愛嬌だと思えるのだったら、このままでいいとか、最近は思う。
   

まとめない尊敬

ひとを「尊敬」するという感覚はなかなか理解が難しいもので、私はなんとなく「すごい」と思うことが「尊敬」だと思っていたのだけれど、でもそれはあきらかにたどたどしい理解で、「尊敬」という言葉がこの世になかったのなら、絶対にそうは思わなかっただろうともわかる。先日、ある方と対談をさせていただいて、この感覚が「尊敬」だ、と思い知った。この感覚はまだ知らなくて、だから名前をつけてみようかと思い立って、それから「尊敬」という言葉にたどり着く、そんな健康的な気づきだった。憧れることや、かっこいいと思うこと、そういったものとも少し違って、それらを超えたところにある「その人がこの時代にいてくれて良かった」という安堵。昔、他者にあこがれるというのは非常に不健全だな、と私は思っていたのだけど、この安堵は自分自身のアイデンティティを否定したりはしない、とても自然なものだった。ひとには友達がいても恋をしても兄弟がいても両親がいても、お金があっても夢があっても、拭えない孤独があり、そのうちの1つは、「尊敬」によって埋められるのかもしれない。
   
誰かに憧れることは自分よりも他者になりたいと思うことで、そういうのはなんていうか、「自分なんていらない」と言ってしまうことに近い、なんて思考が昔あった。本質的に、世界と自分を区切る境界線は曖昧で簡単に消えてしまうという危機感が強かった。でもいつのまにか、「他人の中に山のように天才がいる」というそのことが嬉しくって仕方なくなっている。他人によって世界の色は強くなり、それをよろこんで眺めている私は結局、自分にピントがあったんだろう。不明瞭で、どんな人間なのかすらわからない自分を持て余して、そんな自分を見つけ出すためだけに、他者を必死で見つめていた。でもそれはあくまで、自分を見つけるためでしかなかった。今ははっきりと、油絵の具で自分は塗られていて、世界が何色だろうが見つけることができる、そんな安心感がある。すると、それまでだって必死で見ていたはずの他人がもっともっとバラエティに富んでると気づいたりするんだよね。
  
詩集を読んでくださった方が、ときどき「従来の詩」や「詩壇」という言葉を使って私と比較することがあって、でも、私は「従来の詩」とはなんなのか知らないし、詩壇というものを見たことがなかった。どんなジャンルでも、「業界」という言葉や「ジャンル」を主語として使われることは多くあり、便宜上、それらはまるで一つの意思を持った集合体であるかのように語られる。けれど中身は複数の人間や作品で、家族だろうが友達だろうが反発しあって喧嘩しているようなこんな協調性のない生物が集合体としてうごめくわけもなかった。世界は自分と相対している一色の存在ではない。何十億もある絵の具の一色が自分だというそれでしかない。そういえば、昔、詩というものを意識し始めた時、「詩とはなんぞや」といろんな詩集を手に取って、でも、読めば読むほど、全部が違いすぎていて詩がさらにわからなくなったことがある。ジャンルとは、「バラバラなものをかろうじてまとめあげている言葉」でしかないと思い知った。文化も食べ物も、それから人間も、外側から見れば同じ器に入っていても、混沌を避けるために同じ器に入れざるをえなかった、というそれだけのことなのだと今の私は思います。