納まらないで、仕事。

仕事を納める気が皆無だ。そもそも仕事納めなんてものは毎日決まった時間にきちんと働き、そしてそれが日々強いられている人たちのためのものであって、私みたいにさぼろうと思えばさぼれるしやろうとおもえば24時間勤務も可能な立場において、納めるもなにもない。そもそも、好きでやっていることが、あとからお金になるようになったラッキー状態で、「仕事が〜」とか言っていいのか? その言葉にはネガティブな感情が詰め込まれている。そのネガティブに見合う辛さも苦しみも私にはない! つまり、「納まらないで!年越しパーティーもあなたといっしょにいたいの!」って私は締め切りに向かって言わなくちゃいけないんだよ。なんだこの話。年末はあたまがこんがらがってつらい。
     
仕事という言葉でこの作業を呼ぶから、いちいち憂鬱になるんだろうな、とは思う。その憂鬱やら責任感が私には娯楽なんだろうな、とも思う。そもそも私にはそこまで責任感もないはずで、だからこそ責任やら義務感にへんなアドベンチャーを感じてんでしょ、そうなんでしょ、と気づいてはいるんですよね。締め切りっていう言葉に変なドラマを見出して、「締め切りが〜」と誰も何も言ってないのに憂鬱風に言っている私はあきらかに、ウキウキワクワクしてしまっている。好きなことを仕事にした場合、そしてこんな性格の場合、責任感だの意識したほうがたぶんずっとふざけていて、私はちゃんと反省しなくてはいけない。責任感を抱いたこと、真面目に仕事に向き合ったこと、それらを、反省しなくてはいけないんだ。
もちろん仕事をしなくては、と焦ることはあるけれど、それは責任というよりは、忘れられるのではないか、仕事をこなしていかなければ、次の仕事がこなくなるのではないか、という不安の方が強かった。つまり仕事があるってことを継続したいし、仕事があることを幸せだと思っている。じゃあ仕事がしんどいと思うこと自体おかしくない? 休みたいって変じゃない? と、いう流れから私の仕事は納まらないで当然なのだという結論に達しましたが皆様いかがお過ごしでしょうか。仕事納め、できました? 私はNO。納まらなかったんじゃない、あえて、納めていないだけ。そう、言わせてくれ。
と、いうわけで大晦日まで作業は続きます。今年も、どうもありがとうございました。
   
(しかし一方で「仕事」という意識で言葉を書くことは私にとってちょうどいいとも思っている。仕事と意識することで、億劫な気持ちになったり責任を感じたりは正直皆無だし、それを演出して楽しんでいるだけれど、でもただ事実として「仕事」としてこの作業を捉えることは私にとって必要なことでもあった。私は、自己表現だと思って書くことはない、不特定多数の読む人がいるという前提で、書くのが好きだ。そして仕事というありかたは、私の手から完全に作品が離れて、知らない人たちの手元に届いていくことを、意味してもいる。依頼者がいて、その依頼者が、作品に対して目的を付与するから。つまり私の管轄外で、作品が社会に投入される。私の意識から外れたところで、読まれることになる。それは私にとって理想だし、だから私は他の人よりずっと、自分のやっていることを「仕事」「ビジネス」と捉えているに違いなかった。問題は「仕事」という言葉が大人ってかんじでかっこいい! ってことなんですよね。でもそんな風に思っているのはそもそも私だけなんでしょうか。だったら恥ずかしいだけなんですけど、事実は覆らない。まあ書いちゃったし投稿しちゃえ!)
   
   
  
このブログやら他の雑誌に載ったエッセイやらをまとめたエッセイ集が最近発売されました!書店さんやらネット書店やらで買えます。発売2週間で重版も決定!ありがとうございます!

 エッセイ集『きみの言い訳は最高の芸術』
  
 最果タヒにとって初のエッセイ集。
 ブログを中心に、雑誌・新聞に掲載されたエッセイも収録。

   
ちなみにはてなブログさんに最近インタビューしていただきました。ここから読めます。
    

悪いことぐらい自分で考えろよ。

差別や偏見の何が気持ち悪いって、自分で考えてないっていうことだと思う。自分の口で、態度で、その悪意を表明しているのに、自分で考えていない、他人もみんなそう思っているっていう後ろ盾があるつもりで、そこから思考を引用したつもりで省エネしている。それはたぶん差別とか偏見とかだけじゃないのかもしれない、主語が大きすぎる価値観(「○○はみんなそう」みたいな)というのは、たいてい一人の人間の経験と思考じゃ普通は裏打ちできないはずで、そういうのを語るときどうしても世界から思考を引用してしまう。世界を代表しているつもりだから、正義のつもりにもなれるのかもしれない。でも、そんな悪意はその人自身の人格も人生もなにも入っていないからっぽのプラスチックケースみたいで、たとえば友達がそういうこと言ったとしたら急に友達の存在感が目の前から消えてしまう。最低なことぐらい考える日もあるだろうよ、善人になれなんて、人間やってたらどうしても言えない。でも、悪いことぐらい自分で考えろよ、とはどうしても思ってしまう。
最低なやつがいて、そいつに攻撃されたら、攻撃し返せばいいだけで、でもそこにいない、曖昧な「他人」とかいう存在の代表として当人が振舞っている場合、殴ったって怒ったって届かない。当人は空っぽなままで、何を言われても自分への言葉だと思わない。そういうのって気持ち悪くないですか、単純に、一人の人間が、一人の人間としてではなくて、自称「世界の代表」として振る舞うって、コミュニケーションのありかたとして気持ち悪くないですか。だってきみが私の目の前にいる意味がないじゃん。人間として向き合っているのに「いや私は世界なんで」なんて言われたらなにいってんだこいつ、と思う。私が今見ているきみという存在を、私が友達だと思っているきみという存在を、きみが、放棄するなよ、無責任だな。どうして一対一になろうとしないんだ。どうして生きていて、他人と言葉を交わせるのに、自分で考えて自分で決めたことだけ口にできないんだ。生きるっていうのはそういうことじゃなかったのか。正しさだとか道徳的な話、そういうものを自分一人で突き詰めるのが難しい、とかいうならせめて、悪いことぐらいは自分で考えろよと思う。

人間悪いことぐらい考えるでしょう、姉と弟で勉強とか運動とか、出来不出来に差があれば、互いに互いを疎ましく思ったり、友達が自分よりずっと運がいいように見えたら、同僚ばかりが才能に恵まれていたら、嫉妬してしまったり、するし、そういうのをたれながして、「私はちっさい人間ですよ」「そうだね〜」って友達なら一緒にケーキ食べますよ。私はそういう悪意が好き。その人の人格みたいなものが善意の何倍もそこにあるって思っている。でも、自分で考えたわけでもない悪いこと、口にされても、私は誰と会話しているんだろう、と思ってしまう。せっかくの時間、せっかくの場所、せっかく向き合っているのにそれかよ、って思ってしまう。差別とか偏見とかには、他にも嫌だなって思うところがあるけど、友達がそういうこと言ってしまった時は、そんな気持ち悪さについてまず考えるんだ。そんなことよりきみの職場のムカつく先輩について好きなだけ愚痴ってみたらどうだろう。毎日、深夜に布団の中でひとりぐるぐる考えている言い訳と悪口と自己肯定について。そういうのが聞きたいなって、私は思う。



このブログやら他の雑誌に載ったエッセイやらをまとめたエッセイ集が最近発売されました!書店さんやらアマゾンやらで買えます。発売2週間で重版も決定!ありがとうございます!

 エッセイ集『きみの言い訳は最高の芸術』
  
 最果タヒにとって初のエッセイ集。
 ブログを中心に、雑誌・新聞に掲載されたエッセイも収録。

   
ちなみにはてなブログさんに最近インタビューしていただきました。ここから読めます。
    

「詩」は恥ずかしいのか?

詩は恥ずかしいのか、という話をマツコさんと有吉さんの番組でやっていて、詩が恥ずかしいとか歌詞は恥ずかしくないとかそういうことではなくて、それを書く人次第でしょ、というのがマツコさんの意見だった。私は詩人をやっていて、詩でごはんをたべているけれど、詩を恥ずかしいと思ったことは正直なくて、「詩人です」と自己紹介するのもなんとも思わないんだけれど、しかし「恥ずかしい」と思われる可能性はよく知っている。「詩人」を社会から浮いた存在にしてしまっているのはなんなんだろうな、とは時々思う。
言葉というのは誰にも書けて、だからこそ誰でも「書く」ということを笑ってしまえる、という空気はたぶんあるよね。詩人という仕事だけではなくて、言葉を書くということを仕事にする時点で、やっぱりどこかそうした空気には触れることがある。で、それは恥ずかしいことだからとかそういうことではなく、それぐらいその人たちの心に近い部分、生活に近い部分を仕事にしているのだ、ということなんだと思うし、それはむしろ緊張感が増してうれしくはありませんか。素人の人がプロの歌手の前でその人の持ち歌を歌うとか、プロの前でその人のギターとかドラムを完コピするとか、そういう映像やらをみるたびとんでもない状況だな、とは思うけど、でもそういうこと私もいつもやっているんだろうなあ。人間はほとんど全員がプロの言葉使いであり、そしてその前で私は言葉を書いて、言葉を売ろうとしている。「そんな言葉、誰も買いませんよ」って、どんなジャンルよりも一番、みんな言いやすいだろうとは思う。
   
そういう場にきてしまったことは、偶然でしかないのです。絵でも音楽でもよかったはずなんですけれど(なんて思うのは傲慢なことなんですが)、でも結果として私は言葉の世界にいて、言葉で仕事をしている。文才とかいう言葉もあるけれど、文が人を選んだりはしない。言葉のみに優れた人なんているわけがなくて、偶然その場に来てしまったからこそ、言葉を研ぐことになったからこそ、能力が、技術が、目覚めていったという人がほとんどだろうとおもう(私はまだまだですけどね!)。言葉に選ばれた人なんていない。言葉を選んだ人しかいない。私はだからこそこうやって笑われること、恥ずかしいことだと言われることが、他のジャンルより頻繁に起こるのだという、そのことが幸運だったと思っている。尊いもの、自分にはできないものと思って作品を見つめられるなんて嫌だった。距離を置かれるみたいで嫌だった。生々しいまま、生々しい感覚にぶつけていたい。私はたぶん、受け手の心の中心に向かう、最短距離の道をもらっていて、そこに直球を投げるだけだからこそ、相手からも直球の「恥ずかしい」とかいう言葉が返ってくるのだ。どんどん返って来たらいいと思う。どんどんきみの生々しいところを見せてくれ、「恥ずかしい」と言われることも私の仕事だ、そこに向かって言葉を書くのが私の仕事。好きなだけ、好きなこと、言えばいいのだ。そうじゃなきゃ「なんかいいね「なんか好きだ」って言われた日に喜べない。きみの、生々しいところに真正面から向き合っていたい。
    


このブログやら他の雑誌に載ったエッセイやらをまとめたエッセイ集が最近発売されました!書店さんやらアマゾンやらで買えます。発売2週間で重版も決定!ありがとうございます!

 エッセイ集『きみの言い訳は最高の芸術』
  
 最果タヒにとって初のエッセイ集。
 ブログを中心に、雑誌・新聞に掲載されたエッセイも収録。

   
ちなみにはてなブログさんに最近インタビューしていただきました。ここから読めます。
    

言葉は悪人になったほうが書きやすい

言葉は悪人になったほうが書きやすいと思う。炎上だなんてものがあるけれど、それは書き終わったあとの話で、書くときの居心地の良さは善人として言葉を紡ぐときよりずっといい。もちろん私が私として語るのが一番よくて、悪人にも善人にもなりたくはないけれど、文脈によってはそのどちらかを選択せざるをえなくなるときがある。人に何かを説得するときの文章なんてまさにそうだ。あなたが正しい、と言われたいがために、言葉で私を善人に見せかける。

ああさみしいな、つらいな、こういうときこそ、言葉は凶器だと思う。私は私を殺して「善人さん」を作っているだけだ。私を、守ろうとするときに、書く言葉こそ凶器だと思う。私は私のことがどうだっていいときじゃないと、きっと自分で好きになれる言葉は書けないんだろう。どうして、言葉で交渉しなくちゃいけないのか、相手の非を追及しなくちゃいけないのか。たぶん、書くことを仕事にしているからなんだけれど、強度を強度としてつかおうとしたとき、私は一気に言葉を書くことが嫌いになる。
それでも言わなきゃいけないことがあるときもあり、むしろほとんどのひとが、この苦痛を感じていて、それでも善人になる必要があるというその悲しみに沈んでいる(はずだ)。善人としてふるまう人の姿はいつだって痛ましい。私にはそう見えてしまう。それほどに他者に傷つけられたということだ、そう、善人として書かれた言葉を読んでいるといたたまれなくなる。この人だって、本当はもっと利己的なことを言ったりわめいたりしたかったんじゃないかと考えて、そんな自然な振る舞いすらできないほどその人が追い詰められていることを悲しく思う。(実際はわかりません。みんな、私よりずっと心がきれいなだけかもしれない。)

本当ならきれいなこと、正しいことも欲望として語ることができたはずだ。こどものころはそうだった。それがいちばん気持ちいいから、大切にしたい、というそれだけだった。でも今はもっと、利己的な部分があって、正しさやきれいなことだけで自分が満たされるとは思っていない。要するにあんまり善人じゃないんだよなあ、これは私だけかもしれないけど。だからこそ、冷静に語れだとか、論理的に話せだとか、そういうことを強いられるともうほんと勘弁してほしいと思う。だれかを説得するために、正義を手に入れるために、言葉を使うのが苦痛でしかない。善人として言葉を選ぶたび、私から言葉が剥がれて、ただの理屈の装置となるのがわかる。私はその理屈100%で生きてないのにな、と痛くなる。たしかに強力だけれど、それは私を守ってはくれるけれど、私は、善人になることで、私そのものを殺してしまっている、そんなことも同時に思う。


このブログやら他の雑誌に載ったエッセイやらをまとめたエッセイ集が10/24に発売されます。書店さんやらアマゾンやらで予約受付中です。

 エッセイ集『きみの言い訳は最高の芸術』
  
 最果タヒにとって初のエッセイ集。
 ブログを中心に、雑誌・新聞に掲載されたエッセイも収録。

    

ネットがあるなら、共感はいらない。

人と人との関係に共感はそこまで重要だろうかと思う。他人は全く違う人生を生きて、わかるわけもないことを考えているからこそ、私は私でありあなたはあなたであるということを、大切にできる気がしている。もっと、相手がそこにいること、そのこと自体を愛おしく思えるようになれたらいい、そんな感覚で満たされたらいいとずっとずっと思っている。
   
たぶん私が詩を書いているのはそうした気持ちが強いからだろう。共感されることを期待して書いてはいない。そして、それはブログも同じ。私にとってネットというのは、同時代に暮らしている人たちとたくさんすれちがえるところで、なにも語り合わなくても、確認なんてしなくても、彼らとはとっくにたくさんのものを共有していると思っている。私たちはたまごっちを知っている。宇多田ヒカルの声を知っている、最新ニュースも地震速報も共有している。だから、「一般常識とは違う」「共感されない」ということが、互いの理解の障壁にはならないと思っている。信じている。価値観が違っていても、望むものが違っていても、相手の言葉を「自分と同じ場所にいる人の言葉」として受け入れることが、できるはずだ。わかりあうなんていうものより、それはきっと尊いはずだ。だから「共感できない」と言われることが怖いと思ったことはなかった。逆に共感されることもあって、それは不思議だし、とにかく、どちらにしたって幸せなことだ。読んで、なんかおもしろいなと思ってもらえたならそれはもう十分なこと。私は生きていて、あなたも生きていますね。ブログが本になることで、もっといろんな人にこの感覚が伝わったら幸せだなあ、どうだろうなあ、と考えたりする。私は私であり、あなたはあなたであるということ、それだけのことをそのまま、形にしていきたいです。
    
よかったらブログの本、読んでみてください。発売は来月27日です。
アマゾンで予約受け付け始まっています。書店さんでもたぶん、予約できます。

 エッセイ集『きみの言い訳は最高の芸術』
  
 最果タヒにとって初のエッセイ集。
 ブログを中心に、雑誌・新聞に掲載されたエッセイも収録。

    

今日も、あの歌は歌われる。

Mステで結成20周年だとかでくるりが「東京」を歌っていた。私はもう大人になっていた。テレビをつけっぱなしにする癖がもうとっくになくなっていて、だからくるりのタイミングを狙ってテレビをつけた。はじめて「東京」を聞いたのは15年ぐらい前かな、なんてことを思う。くるりはその日オリジナルメンバーで、それ自体が久しぶりのことだった。20年ぐらい前の曲が、今Mステで初披露されていて、たぶん女子高生ぐらいの子が「エモい」っていっているのをツイッターで見かける。エモいなんて言葉、当時はなかったよなあ。私が「東京」をいい曲だなあ、と思ったのは15年前で、そのとき、東京のことなんてよく知らなかったし、多分当時の「東京」を私は知ることができない。上京するということもどういうことなのかわかっていなかった。だからなんで、「いい曲だなあ」と思ったのかは正直なところわからない。
   
東京という街は特別だ。私は具体的な地名を詩に書くのは好きじゃなくて、それは読む人が知らない土地だとそこでイメージが止まるからだった。でも、東京は知らなくても、知らないという事実がまた別の意味で特別ななにかをもたらす。私はまだ学生だったし、将来のことを考えてこわくなったりもしなかった。よくわからないけれどとりあえずまだまにあう、なんてことを思っていた。そんな私が見ていた「東京」という場所は、たぶん今見ていたものとは違っていて、そしてこの歌で歌われている「東京」とも違っていて、そのずれをうめるようにしてメロディーが流れていたのだろう。Mステで15年後、「東京」の演奏を見て、思ったことは、ただただ、私も、くるりも、それからきっと音楽ですら、時間を止めることはできない。みんなみんな老いていくのだということ。完成した作品ですら、時間がたてば変わっていくんだ。いまこのときに聴いた「東京」はたぶん誰かが言ったように「エモい曲」で、そしてその東京にはポケモンがいて、iPhone7が予約開始されて、カープが25年ぶりに優勝し、そして4年後にはオリンピックがやってくる。東京という言葉にはもうそれらがしみついて、15年前の「東京」なんて必死で掘り起こさなきゃ見つからないだろう。そして、だからなんとなく、今の私が、今のくるりが、今の「東京」を歌っているその姿を見ている、というそのことが素晴らしいと思えた。なにもかもがもう一度「現在」に生まれ変わったようだ。懐かしさでも思い出でもなく、「今」として。すべてが追いついた、そんな感覚に襲われていた。
   
Mステのあと、アルバム「さよならストレンジャー」をとりだして「東京」を聴いたんだけれど、予想外に「あれ?」って声が漏れてしまった。Mステで見た演奏は当時のすべてが蘇る感覚だったのに、その演奏とアルバムの「東京」はなんだか全く違っていた。いいとか悪いとかじゃなくて、ただただ違った。Mステで見て、「わーあの時きいてた「東京」そのまんまだ!」なんて思って、だからこそ15年前に聴いたアルバムひっぱりだしたっていうのに、そこにあった「東京」はMステの「東京」とは違う響き方をしていた。よく考えたら全然ちがう。録画したのを見てもやっぱりちがう。どうして、そのまんまだとか思ったんだろう。思い返してみれば、別にこの15年間一度も「東京」を聞かなかったわけじゃない。ときどきはこのアルバムをきいていたはずで、そのときに一度も「蘇る」感覚にはならなかったな。懐かしいと思ったし、思い出の曲として触れていた。過去を切り離して、「現在」だけのものとしてはどうしても聴くことができなかったんだ。アルバムの「東京」はもう私にとっては「過去」でしかないのかなあ。昔のくるりが、昔の「東京」を歌うのを、今の私が聴く。この時間の差を埋めるために、どうしたって懐かしさや、思い出が頭の中に浮かんでしまう。それも悪いことではないよ。十代の自分の気配がする。でも、やっぱり、はじめて「東京」を聴いた時の私とは全く違う聴き方をしている。
   
作品は完成したらそれで終わりのような気もして、時間が止まるような気もして、でも本当はそんなことないんだろうなあ。変わらない気がして、むしろ変わらないでいて欲しいとすら思って、当時のCDを大切に聴いて、昔のライブ映像とか見たりして。でも、やっぱり作品だって歳をとっていく、あの時代のあのころの気持ちを冷凍保存するような、そんな寂しい役割しか担っていないわけじゃない。なんとなく、同じ時代に好きなアーティストが生きていることの幸福を思った。過去としてではなくて、歳をとった今の作品に触れて、変わってしまったというのに、変わってしまったからこそ、もう一度自分と出会い直してくれる作品のすばらしさを思った。全員昔とは違う。作品も違うけれど、それでも、私はあの時と同じような鮮烈さで出会い直しているはずだ。15年前のあのとき、「東京」を聴いて「いいな」と思った私の気持ちにはもうなれない。でもそれはさみしいことではないよ。くるりはまだ歌っているし、私はまだ生きている。「東京」の街はまだそこにあって、これからもあって、そして、過去の私には今の私が、今の「東京」を聴いて、どう思うかなんて想像もできないだろう。分かり合えないし、互いに、忘れていくけれど、それは「今」として生きている証拠だとすら思っている。
   
   
(追伸。ブログが書籍化することが決まりました。秋に出ますのでよろしくおねがいいたします。)

「若さ以外の強さを探している」

棋士の羽生さんがとあるテレビ番組で、「若さ以外の強さを探している」みたいなことを言っていて、「若さ」というものについて人がどのように捉えているのか聞いてみたいとは思った。以前穂村弘さんとユリイカで対談した時に、青春のまぼろしを書いていました、と私は昔書いた短歌について話していて、穂村さんが青春はだんだんと人生に負けてしまう、みたいなことを言っていたのが衝撃だった。いや、そうなんだろうな、とは思っていたんだけど。そうなるのが人間だろうな、と思うのだけれど。そしてだからこそ「若さ以外」を求めるようになっていくのだろうし(羽生さんの発言に対しては今田耕司さんがすごく共感していたのが興味深かった。やっぱり若さって大きな武器であり、壁ですよね)。私が衝撃だったのはそのことを穂村さんがさらりと言ったということだ。「若さ」というものを失うのって私はこわいっていうか、それ失ってまで書くかな、どうだろ、っていう気すらしているからか、そうあっさり言った穂村さんのそのドライなかんじが衝撃的だった。
    
そもそも若さが人生に負けていくとはどういうことだろう。穂村さんは若い時には病気も財産も地位も名誉もなくて、あるのが未来へのまぼろしだけだから、それだけだからこそまぼろしが真実になる、とおっしゃっていた。生きていくことで、「人生」が重みを持ち、まぼろしに勝っていくのだと。青春のまぼろしを私は、ときどき本当にただの「ゆめ」だったのではないかと思う時がある。私たちはもしかしたら若い間は、人ではないのかもしれない。命ではないのかもしれない。人生ではないものの中にいたのかもしれない。かもしれないっていうか、たぶんそうだったのだ。私は自分があのころまともな人間として呼吸をしていたようには思えない。まぼろしという言葉を対談のときに選んだのは直感だったけれど、でもたしかにまぼろしと現実のまんなかに立っていて、そしてそこで両方のものを同時に見ることでなんとかバランスを取っていたのだ。両生類みたいなもの? 私はあのころのことを愛しているとか気軽に言えない。あれは私ではない、ぐらいに思ってやらなきゃ、当時の私が怒るだろう。
「若さ以外の強さを探している」と言っていた羽生さんは、ひたすら読んでいく若い強さから、空から鳥が全体を見下ろすような大局観に変わっていったと説明をしていた。「若さ」とは一体何なのか、そしてそれに代わるものとはなんなのか、という話はその人がなにに向かっているかによってもちがうだろう。穂村さんとの会話は、「短歌は生活(人生)を描くものなのですか?」という私の問いから派生して出た話であり、だからこそ短歌における「人生」が「若さ」に相対するものとして現れた。私は自分の人生が作品に影響するとはそんなに思っていないので(世界が作っている言葉の渦みたいなものの方がずっと影響を与えている)、人生と若さが対立構造だとは実はそんなに思っていない。ただ若さとは「凡庸」さを担保してくれるものだとは思っている。作品というのは100%前衛だったら、たぶん届いていかないような気がしていて(届くことがいいことなのかは別問題だけど)、どこかに凡庸な部分があって、それが入り口になるんじゃないかと思っている。で、その「凡庸さ」を担保してくれる一種が「若さ」なんじゃないかな、って。私は10代の頃、どんなにぐちゃぐちゃで混乱したものを作っても、若さという高熱がそこにあるあいだはちゃんと伝わっていくような気がしていた。信じていた。若さや青春というのは人間の脳のほとんどに備わっている感性の一種だと思う。大人になればみんなばらばらになるし、AさんがぴんときてもBさんはちっともわからない、みたいなことが当たり前に起こり得るけれど、「若さ」は現実に作用しないから、まぼろしのものだから、他に比べればずっと、共通のところも多いはず。混沌とした作品のなかで燃えている青春のまぼろしみたいなものにぶつかったとき、わけがわからないけれどぐらぐらと心が揺れるような感覚は、多くの人にとって覚えがあるんじゃないかなって、勝手に思っていた。たとえ作品の輪郭がどろどろに溶けてしまうほどの高熱に晒しても、その熱が「若さ」によってできている限りは大丈夫。そういう点での「若さ」の強さを私は見ていて、だからこそそれを失うって恐ろしいよね、とも思っていた。
   
しかし若さを失うということが、退化でも、進化でもないのは確かなことで、それがただの「変化」だと受け入れたときこそ、「若さ」以外のものを手に入れたと言えるのかもしれない。穂村さんの淡々とした「若さ」への態度はなんとなくそういうことを予感させた。私は若さを失うなら、失うというそのことを生々しくどこまでもリアルに感じ取っていたいし、自覚し続けたい。目をそらすのはいやだよね。終わってるよね。っていうかつまんないよね。鋭さだけでは動けなくなっている、というその自覚を冷静に受け入れ続ける、という姿は、鋭さだけで動いていた頃よりずっとずっと鋭いのでは? なんてね。でも、実際私はそこまで強くあれるかな〜。なんだかんだで早く、どうなるか見てみたかったりもする。