豆ぐらいで逃げないぞ!

節分おめでとうございます、ありがとうございます。先生のところは節分もうお済みで? あ、まだで、それはそれはグッドラックでございます。
     
私は基本「先生」という呼びかけを「教師」に対して使用しているので、詩に使う「先生」というのは教師のことであるのだけれど、よく考えれば「医者」もそうであるのだねぇ。そこらへんが入り混じると誤解が生じるというその危険性にも気づかず、医者の隣で「先生」連呼した作品がありますがまあいいか、いいのか?
   
東大生のノートは綺麗という説があるらしいです。そしてその東大生が「むしろ東大生はノートとらないんだぜ」とのたまっているニュースもありました。正直大学生にもなってノート云々もないと思うんですけどみなさんどう思いますか? ノートを取るという行為が重要なのはたぶん中学受験のころだなぁ。中学受験の本って教科書より問題集っていうイメージが強くて、塾でとるノートだけが参考書として使えていた。けれど大学受験とかになると、参考書も教科書もざくざくあるから、頼りないノートなんてみないで教科書で勉強してことたりるようになるし、大学生になるとさらに次元が違う世界に行くと思います(なにかふわふわした表現)。まあ理系文系にもよるんでしょうが、ともかく、ノートの質を頭脳と結びつけるなら、灘合格者のノートを調べたほうが手っ取り早いと思います。そういえば灘に合格するような子はみんな字が綺麗でした(これは親の教育の賜物なのかもしれませんが、それを言い出すとノートだってしつけが根本にあるのではないだろうか。東大であれば教育熱心な親を持つ子も割合として増えるだろう。)。