スーパーに犬を放せば肉売り場に集まるのは当然であろう。

本を読まないと日本語に対する潔癖症がひどくなる気がする。何を書いても「間違っている」気がして恥ずかしくなる。昔から自分のことは棚に上げて文章の正しさ美しさについてうるさい人間だったけれど(そのせいでまともに本を読了できなかったけれど)、本を読まないでいると「理想の日本語」のハードルが上がりすぎて「在り得ないもの」になってしまいがちだ(日本語をしらなすぎるとも言う)。読書家ではなかったから、今そのツケを払っているのではなかろうか。私はもともと、理想のスタイルができたことがない。詩だって私の作品は好きなタイプではない。もっとスマートな詩が書きたかったのだけれど同時に無理なこともわかっていた、というか向いていなかったので書いていないだけだ。つまり整頓されたまったく間違いのない日本語をめざして書いたって近づけるわけもないということはひしひしとわかっており、しかしそれに開き直るのもどうだろうかと思う。このへんで私は「自分の言葉」という概念を忘れている。だれだって、正しかろうが間違っていようがみな自分の日本語で書いており、楽な言葉で書いているのだ。読むと書くは違う。最低限の礼儀作法が必要だからと言って、礼儀作法で結婚相手を決める女が見合い会場にいるだろうか(それはいるかもしれない)。つまりは本質はその人であって、なんだってその人の歴史がすべてなのだから、いやだろうがそれが自分の作風なのだと、世間が認めなくても自分は認めなければならない。「俺って天才なんだぜ」ぐらいがちょうどいいのかもしれない。そういえば詩においては文体については特に悩まなかったなぁ。若さか。いや今でも詩は無法地帯だと思っているから、詩に対する価値観の問題だろうか(しかし無法地帯にも無法地帯なりの落とし穴はあり、何度も落下したことがあるのだが)。読者としてはたぶん最も口のうるさいタイプの人間である私は、私の文章がどれもこれもクズに見え(正味クズだという意見はここでは聞きたくない)、書くということがまだわかっていないのかもしれない。書くと読むは違うのだ。しかし結果を出そうとすれば、結果的に読み手のことも考えてしまい、その「読み手」の代表として自分がいるわけだからなんだかんだで解決しないではないか! という。ここで私が頼りたいのは「新鋭」とか「若手」とかいう単語で、これは「なにやってもいいよ!」という、ある種親戚の集まりで「あの子はまだ子供なんだから仕方ない」といわれることを期待するのに似ているので、こずるいとも思えるが、優等生な若者よりは、ずるがしこくもばくちを打つ若者のほうが将来は頼もしいかもしれない。とか考えている本日は9日、明日が締め切りです。