あなたがスナイパーだったのですね!

わたしにはなりたいものが3つあり、全部なるつもりでいるのだけど、あ、4つだった、それになれたからといってたぶんここでは知らせないし、全部分けて生きていくと思うのだけど、今だってそれになるための鍛錬はぜんぶ分けてやってんだしさぁ、そういうふうに個人を分割していくのって何なんだろうと思ったら、わたしは自分から生まれ出たもの(作品とかもろもろ)は他人にいっぱいみてもらいたいっておもっているけれど、私自身は静かにだれにも見られずにいたいと思っていて、そういう矛盾からくるんじゃないだろうか。どうあがいてもこの時代だと、作者とか発信者とかは重視されがちで、どういうひとがその向こうにいるのか、というところにまで興味がひたひた。わたしは読んでいるものの作者の姿とか目にしたりするとね、ぞくっとして、すごくトラウマみたいになるんですよ、それ読むたびにそれからは思い出すし、くらくらするし、その人の目の光とかがずーっと残るんです。それが無理。(お知り合いになったりとかして人間的付き合いに発展するのは別です。作品しか知らないのに一方的にその人を知っているという状況について、です。)だから私は自分自身も分割していって自分自身じゃない作者・発信者・当人すらも作成しているのかも。