4がつ3かはやってきた

人の不幸な話、苦労話をテレビでよく見ますし、それを「かわいそうねえ」といってみている人もよく見ますけれど、そんなものをなぜ娯楽として受け入れているのだろうかと思う。これは、別に「GI☆ZE☆Nだあああ!」とか言いたいからではなく、幸せな人がわざわざ不幸な話を探してまで知ろうとする姿勢に不気味なものを感じるからです。「自分の幸せの裏には誰かの不幸があるのですから、それを知ろうとしなければならない。」なんていう話もありますが、しかし幸せに生まれた人がただ幸せに生きていくことがそんなに悪いことなのでしょうか? 心優しく、誰もを幸せにする人に、私は「お前の幸せの裏には誰かの不幸が!」なんて絶対言いたくありません。そういう人には幸せな世界の中でずっと暮らしていてほしい。そう思います。幸せな人がわざわざ、不幸を知り同情する義務なんてないと思うのです。
しかし、「無知とは罪」という考えもまた真であり、幸せをなるべく他に広めていこうとする人、寄付や援助が自然とできることは人間として理想だと思います。私が思うのは「ただ知る」ということですでに自分の義務を果たしたと思っている人。「かわいそうね」「気の毒に」なんてテレビの前で言って、それでもう、「誰かの不幸」をわかったつもりでいる人たち。それならば知らずに、ただ幸せに生きているほうがずっと健康的でしょう。知るということは所詮自分の脳みその中だけの事件であり、それで世の中が変わるわけがない。何も知らなくても習慣みたいに自然とコンビニの募金箱におつりの小銭を入れる人のほうが、目の前でこけてしまった老人にすぐさま手を貸せるような人のほうが、ずっと美しいと私は思います。