魔法の箱に恋

私は魔法の箱は今だってパソコンじゃなくて、テレビだって言うよ。テレビが薄型のむしろ板になったって、魔法の箱だって言う。だってテレビは生放送っていう魔法を使えて、私はその同時代性に泣いたりしてしまうんだ。遠くのどこかでこの人が、この歌を、こうして、今歌っているという事実が、私にとって何よりも意思と世界を断絶する。触れられない、見られない(電子信号を見るのではなく、現物を)、聞こえない(電子信号…(以下略))、そういう私にとって「事実であらざる事実」が事実であると認めざるを得ない状況を作り上げるテレビ。パソコンもできるけど、私のほしい登場人物はなかなか出ないから放置。この人がどこかにいるのだと、教えてくれるテレビは、経験でしか広げられなかった世界を確実に押し広げ、納得させる。私は別に自分の見ているところ以外は実はなんにもないんじゃないかとか思っているわけではないけれど、たとえば、学校を休んだ日、知っている教室できっと今友人たちは勉強しているんだと想像できる「感覚の中に存在する世界」と、まったくしらない学校に対して、あそこにも人がいるんだろうなと考える「感覚の外に存在する世界」は、まったくべつものだ。知っている場所、想像できる場所、感じ取ることが出来る場所はつねに経験でしか手に入れることが出来ず、生放送ミラクルパワーDXはそれをやすやすと実現する。心の友よ。テレビは素敵。ただテレビに夢中になりすぎて、自分の現実世界がないがしろになるときもあるっちゃある。