創作と動機

リアルタイム中2だったころを除いて、わたしはうちゅびょう(あえてぼかします)という言葉を使ったことはない。宇宙病ではありますがネ!とか言う暇があるぐらい言葉が遠い。それはまったく自分にそういったものの知識がないことと、周りにいないことが兼ね合っており、それを「無知と言うのだ!」「無知は罪だ!」とか言われたらショックで泣くと思うので(しかも押し付けがましく)ご用心を。もちろん「い〜ま〜わたしはメランコリ〜♪」とか裏声で歌いたくなるときもあるのだけれど、それはもちろん言葉を借りただけだなと思っていて、途方もない恐ろしさを未知なる言葉に感じている。私は昔から「ねあかである」「にこにこして一日を過ごすことができる」「悩みはたぶんない」ということが幸せでありながらもコンプレックスであり、ドラマなどで辛い宿命にある人が「あんたなんかにわかんないわよ!」とかいうとぞっとするのだ。追うようにして心臓が鳴って、自らは何にもないと思う。なんにもないな、人と言うものが経験で作り出されるならば私はあかちゃんのまま止まっているのではなかろうか、そんなことを思う。するともうなにもかもがいやになって、特に自分の気持ちを文章にしたり、創作をすることがいやになって、自分が描いた「ひと」なんてものは全部偽者でうすっぺらくて浅くてむなしいものなんじゃないかと怖くなる。そしてそのことにきっと自分は自覚なんて出来ないんだと思うと悲しくてたまらなくなるのだ。私には「創作をする」ということに対して動機が見当たらない。物心が付くころにはモノをつくること、物語をでっちあげることが好きだったし、どんなにたどっていってもそこに動機はない。自分はなにをもとめて創作をしたのか、ってことがわからないまま、私は大人になってそのまま直感で「好きだ!」とおもってやっている。直感とはいったいなんだろうか、ということもわからない。衝動ってなにでできているの? 感情ってどんな激しさ? 私は怒っているのか悲しんでいるのか、それはなぜ? それは絶対のものなの? 本質が放置されている。自分が空っぽであることを見たくないまま、わたしの創作だけが膨らんで、平凡で普通の私は見つめられないままなのではないか。けれどそういうとき私はあきらかに創作に支えられていて、他者がどう思うのであれ私が作るものは私にとって新鮮だった、それだけでよかった。非凡だとかそういうのは他者の判断するところだけれど、私がおもしろおかしく思える間はものを作っているだけで心休まるし、私は平凡でくだらないということはないんじゃないかしらと夢を見ることが出来る。もちろんその根本はぼんやりとさせたまま、直視しないまま。でも、もうちょっとの間はそれが許されてもいいんじゃないかしらと思う。