トーマとポー、そして奇跡

わたしは「トーマの心臓」が好きなんだけれど、あれってBL?の走りとか言われているらしい。ありえん。わたしはそれは違うっていうか間違っていると思っている。性別とか関係なく「恋愛なんか秋の猫にでもさせとけよ」と思うほどラブロマンスがわたしは嫌いで、小さいころからギャグと戦闘モノではない少女マンガを受け入れられなかったぐらいなので絶対「トーマの心臓」は違うと思う。そうじゃないとわたしが好きになるわけがない。そういう説があることにびっくりしたぐらいだ。「ポーの一族」もそうだったけれどああいう形の人間関係ってわたしもあった。恋愛とか友情とか神話か都市伝説だと思っていた時代に、絶対的な信頼と尊敬を抱いていた人っていうのは、みんなはいなかったのかな? こう、愛情とか友情とか上下関係とかそういった「他者に対する感情」にジャンル分けがされる以前に、家族に与えられる「無償の愛」から出た場所ではじめて抱く他者に対する「強い感情」。持ったことないんだろうか。強すぎて自分は混乱するし、時にはそれを愛と呼んで解釈から逃げ出したいと思うこともあるし、そうした動揺からさらにその気持ちは大きくなっていくっていうただの爆弾みたいな思い。別にね、「愛する」とか「大事」とかそういうものでさえないんだよ、「信じる」でもないし、もしかしたらはじめて他者と接し、仲良くなることに舞い上がった独りよがりな感情の爆発なのかもしれない、とすら思う、それぐらい繊細で危なっかしく、名前がない。「この他者とはいったいどういうものなんだろう?」そうしたところから始まって、「嫌われるかもしれない」というはじめての不安と「嫌われるのはいやだ」というはじめての願望が入り混じるだけの、それだけの感情だと思う。人にははじめ「快・不快」しかないわけだけど、他者に対する感情も「愛」だとか「信頼」だとかではなく、「関心・無関心」のどちらかであったことはあるはずで、そのころの感情の機微が「トーマ」と「ポー」なんだろう。トーマもその感情を愛と呼ぶのかもわからないといってたけど、むしろわからないままでいることこそが自然で、それに愛だとか友情だということ自体が実はその感情を汚しているんじゃないかとわたしは思っている。(少女マンガとかで「この気持ちはなに?」とか言ってる主人公に「それは恋さ」とか言うキャラがときどきいるけどあれこそ悪魔みたいな存在だと思う。生まれたての感情に名を付けることは俗物にするってことだ。)実はわたしは前述した絶対的な信頼を持っていた友人とはとっくに縁が切れていて、それは親友だとか同級生だとか、友情だとか信頼だとか、感情に名前が付いていったことでこじれたからだ。わたしの場合友情として論じられ恋愛には一切ならなかったけどもし状況が違ったら愛情だと履き違えていたかもしれないし、それは断定できない。なにせなんにもない真っ白な感情だったし、それに色を染めるのは当事者ではなく環境だからね。それに思春期は頭ぶっとんでるから。ともかく俗物に落ちる前の感情の結晶を、トーマは死ぬことで、ポーは時間をとめることで永遠にしたし、物語はドラマチックでありながら同居し得ないはずの神秘性を維持していた。これは奇跡だ。だから私にとってここに存在した関係性を愛だとか友情だとか決め付けること自体が悪であり、そこにあるものをそのまま受け入れるしかないと、だれもが解決など欲さず納得すべきだと思い込んでいる。もちろんそれを強制する権利はないし、わたしはひとり相撲で憤慨して終わっているわけだ。けど彼らの感情をわたしの中で自己満足的に守り続けることで、わたしの少女時代が正しく保存され続けているのは違いない。わたしにとって、だから、それは必要なことだ。