メモリあってるんですね、わかります

みんながいい!いい!っていうから読んじゃったよ!
君に届け」読んじゃったよ!どうしてくれるんだこの気持ち!
君に届け (1) (マーガレットコミックス (4061))
お久しぶりな少女マンガです。わたしはどろどろとか女の子の打算とか非現実的な花をしょうような男の子キャラが苦手なのですが、読んでしまいましたよ!
少女マンガってふつうは主人公に共感させるために、土壇場で身勝手だったり自己中心的だったり大事なところで暴走したりと主人公を結構人間くさいものにします。たとえば王道の「天使なんかじゃない」は、明るくて元気でみんなに好かれるというプラス要素は加えられたものの、自分のことを好いてくれている(恋人は別にいる)男性のところに苦しくなったあまり逃げ込んだり、恋人の初恋の人がお見合いすることを恋人に隠してしまったりと、なかなかの人間くささ。聖人みたいな女子のお話なんて読みたくない!というのが読者心理なのかもしれませんし、表面上聖人っぽい「天ない」の主人公でその人間くささをやったおかげで、余計に強調されてさらなる共感を呼び込んだのかもしれません。一方で「天ない」では主人公の友達でマミリンという少女が出てきますが、彼女は素直になれないというマイナス要素は付加されているものの、根本はとてもやさしく、人のことを第一に考えられるすばらしい人です。彼女が誰かを本当の意味で傷つけたシーンなどありませんでしたし、自分のことのためにひどい暴走をすることもありませんでした。また、表面的に素直でないからこそ、彼女が素直になった、本質の優しさが垣間見れたときそれは明らかに強調され、心に残るキャラとなりました。私がこれを見て思ったのは少女マンガは「こうであれば幸せになれるよ」という理想の女性像と、そうはなれない現実の自分たちならどう幸せになるかのモデルを見せることが重要なんだということ。とある漫画家は「少女マンガは女の子に幸せになる方法を教えるマンガ」と言っていますが、まさにそのとおりだと思います。自分が共感できる人物の幸せになっていく姿と、幸せになれる本当の理想的な少女の姿の二通りが少女マンガの伝えるべきテーマなんでしょう。「天ない」ではマミリンが理想で、主人公が現実。最終的にはどちらも幸せになります。そして主人公が現実側であることは重要なことです。結構描かれた恋愛は、青春モノっぽさからどんどんどろどろしていくので、ある種非現実的な恋愛の話の中で、嫉妬もせずただがんばりつづけ、友人のために奔走するというように主人公が非現実的な姿でいれば、「わかるよわかるよー」とは読者はならないのです。
しかし「君に届け」では、この理想側の主人公がとてもうまいことなりたっていました。超ポジティブシンキングでありながら、外見や態度の陰気さから誤解され、それに慣れてしまった主人公は、本当の意味でとても前向きです。だれの言葉もいいように捉え、しかしそれは発言者が自覚しないほど真理をとらえています。他者のいいところを見つける天才なんじゃないかな。これが嫌味にならないのは主人公が向かう問題が基礎的で普遍なものであるから。主人公が向かっていく問題は、人に気持ちを話すこと、友達をつくること、など、だれもが経験したことのあるような、ある種「初歩的な」こと。恋愛だって、正攻法なライバルはいますが、だからといって、相手が実は異母兄弟だったー!とか尊敬する人が彼の初恋の人だったー!とかはありません(別にこれが悪いと言っているのではない)。ものすごーく基礎的な学園モノです。たとえば同じように前向きで、素直で、やさしい子が、ほとんどの人が経験したこともないようなどろっどろの愛憎劇をくりひろげるのならばこうも共感は得られなかったでしょう。つまり「わかるよわかるよー」という気持ちにさせているのは、理想的な主人公がもつ、現実的普遍的な問題なのだと思う。通常は自分と似た感覚、聖人にはなれない、天使にはなれない主人公の姿に共感するのだけれど、この作品ではだれもが経験したことがある、簡単で、基本的で、それでいて一番難しい問題の丁寧な描写にこそ共感ポイントがあるんだろう。そしてこの丁寧な描写には、前向きで素直で優しい主人公がとても合っている。まっすぐにものごとを見つめ、決してなにかを否定したりはしない姿が、複雑でさまざまな形で人の心の中に思い出として残っている「できごと」を、だれの心にも届くようにしているんだと思った。
   
読んでいた間はもうずっとさわこが幸せになるならどうなってもいいよという気持ちだった。さわこーさわこーと言い続けながら読んだ。全人類やのよしだ化計画だ。