趣味の列挙は自己表現になりえるか。

音楽が好きですとは言ったものの、だれが好きだとか言うことができないで雑食ですというしかないのは偏愛で他者を潤わせることは滅多にないからかもしれないし、自分の好きという気持ちに自信がないからかもしれない。しかし何より残念なのが趣味なんかでその人の人柄が一義的に求められてしまうってことだ。わたしが森田童子が好きと言うこと、ボアダムスが好きと言うこと、それぞれが自分を説明する際にさほど意味を成さず、人格に強くリンクしているとは言いがたいのにもかかわらず、言われた相手がわたしに抱くイメージへの影響はこの時代においてあまりにも大きすぎる。音楽の趣味ぐらいで人格がわかるわけもない、ということは明らかでありながら、音楽のファッション化、小学生が使うようなサイン帳に必ずある「好きなミュージシャン」という項目、好きな表現者を自分の看板にすることが当然となり、他人を評価する際にもそこに重きを置くようになってしまった。しかしもともと「好きな音楽」はたいして意味を持つ情報でもなく、信憑性もない。たとえば好きな色の場合、色はだれでも平等にその種類を知る機会があり、十分な情報の中から好きなものを選ぶことが出来ることから意味のある情報と言えるかもしれない。けれど音楽は、周囲に音楽に詳しい人物がいるかいないか、近所にCDショップがあるかないか、ネット環境があるかないか、など、環境が大きく影響し、めぐり合わせでしかない。なによりも、作者にとっての作品の重要性を考えれば、鑑賞者の作品の重要性など微々たる物なのだ。これは作者にとっては自らが作ったものがすべてであるのに対して、鑑賞者はほとんどの人が一人の作者や作品にこだわらず、さまざまなものを手にする。複数の作品のうちの一つを好きだと示したからといって、作者が聞き手に作品を通してまるで会ったような気持ちにさせることと比べれば、まったくその鑑賞者は自身を表現しているとはいえない。趣味の列挙は自己表現としてはあまりに弱すぎる。(もちろん、人生がほとんどそれだけに染まるような熱狂的なファンは別だ。そうした生き方は鑑賞自体がその人の表現になりえていると思うし、そういうファンを得られた作品は幸せなことだろう。)熱狂的ファンは例外として、たかが趣味で人格が語れるほど薄っぺらい人間はこの世にはいない。もしもtelevisionのmarquee moonのギターリフが好きとサイン帳に書くなら、一日中それだけを聴き続けているぐらいでなければ、その人の人格の参考にはなりやしない。趣味を列挙することはもちろん、楽しいことであるし、人と語り合うのは心が潤うだろう。けれどそうした列挙で人を判断してしまうという状況、特に音楽におけるその過剰さは、恐怖でしかないと思う。音楽に詳しい人物が流行モノしか聴かない少女をバカにしたり、逆にオリコンに入っていない、と言うだけでバカにする少女のような、そうした音楽に頼りすぎた感覚がとても汚らしく見えたのはわたしが十代のころだった。