現実と妄想が混ざり合った場所、それが宇宙の果てです。

現実は小説より奇なり、という言葉を私は信用しない。なぜなら宇宙が好きだから、そして誰もが宇宙を愛しているから。現在は多くが観測によって検証され、妄想が現実へと変換されているが、はじめ、地球が星という球体、物体であること自体が人の妄想でしかなかった。科学がそれらを検証し、現実としたのは後付けであって、特にいまでも、果てのことは妄想で満ちている。そんな宇宙を人が愛するのならば、現実、つまり理性が、小説、つまり妄想より奇であるとは言いがたいと思うのだ。
現実とはずるい。たとえば、創作では「そんなご都合主義な展開があるか!」といわれるような奇跡も、現実では「そこまで出来た話があるのか……!」という感動に変わる。つまり小説では見られない奇が現実にある、というのは小説では「どうせ創作だろ?」と邪魔する理性が、「これは現実である」という事柄によって競り負け抹消されてしまうだけにすぎない。本来人の妄想とは現実を越えたところにあるものだ。夜空の暗闇に白い点が動くというだけで、その闇が絵ではなく空間だと想像できた人類の頭脳を私は過小評価などしたくはない。現実に白旗などあげず、理性をどうひねりつぶすかを考えることが出来る人間でいつまでもいたい。
  
    
ブクマに諺の意味についてコメントがありましたので追記しておきますよ。
「事実は小説よりも奇なり」という諺は、事実は人の想像を超えて複雑怪奇なことがるね!っていう、事実についてを述べたものと捉えるか、人の想像力は事実すら超えられないね!という、想像についてを述べたものととらえるかは受け手側にゆだねられているのではないかと思います。ただ諺の元となったバイロンの詩ではこれは事実(真理)の奇妙さを伝えるために書かれた文言であり、どちらかといえば、人の想像力の乏しさを述べたものと考えるよりは、人の想像力を超えた事実の奇妙さを述べたものと考えたほうがいいんじゃないでしょうか。現代でもその解釈のほうが大多数でありますし。そしてこの場合は事実の奇妙さを強調するために人の想像力と比較しているわけですから、比較対象の想像力が劣っていては強調にはなりませんし、この場合においては人の想像力も巨大なものだ、という前提が意味に含まれていることでしょう。というわけで私は事実の奇妙さを述べた文言として今回は使用させていただきました。