大学祭の季節がやってきた。

私は大学を選ぶ以前、友人と何度か吉田寮西部講堂を写真を撮るため遊びに行っていて、何度も来たことがあるのに受験の日まで大学の象徴とも言える時計台を見たことがなかった。それらの建築物としての価値や歴史などにはあまり興味が無かったのだが、あの「一日中昼下がり」のような鬱屈として穏やかな空気感は私たちにとって感動的だった。希少で。
当時高校生だった私たちには当然その世代の人しか周囲におらず、自己というものに対する過剰な意識が周囲すべてに存在していた。変人であると言われることを喜ぶ人たちの間で、変人と言われることがコンプレックスになっている自分たちはどうすればいいのか。ありきたりなことを言い、ありきたりな服を選択してもそれが似合わない自分。無理がある。そして露呈する。個性って褒め言葉じゃないよね! そうは言えない現代。
そんな中であの万年昼下がりの空気は、自己主張というものが欠如していた。それは決して一般的だから、普通だから、ではなく、そこにいる当事者たちに自己顕示したいという思いが欠如していたからだった。自然だったのだ。十代やそこらにとっては、自己顕示欲など過剰なほうが普通で、つまり不自然が普通だった。自分たちは変わっています、と言いたげな人たちこそが前にでてくる時代に、そんなことを言わずして、ただ偶然前に出てしまったような人たちがいた。
  
さて今年も大学祭の季節がやってくる。先日も書いたように、うちの大学祭のテーマはびっくりさせてやろうぜ感で決定されており、大学の自由さを表現する場合、この大学祭テーマと、受験シーズンに現れる折田先生像事件がよく取り上げられる。しかし、最近のテーマは、周囲の目を気にしちゃったり、笑わせたいという欲が強く出ちゃったりで大喜利のような毛色に変わってしまったが、それはそれで健全な青春の1ページとしてはなかなかいいのではないだろうか。まあ私はさわやかで明るい青春には眩しすぎて目がつぶれるので「君に届け」以外で触れるつもりもありません、とりあえず歴代の傑作は1964年の「ああ自然死〜このナチュラルなもの〜」であることは間違いないと言いたい。
このテーマのものすごさというのは、内容にあるわけでも、ましてやナチュラルとかカタカナにあるわけでもない。このテーマを採用まで持っていった人たちがよいのだ。過去の名作には他に「草の根も 花も咲いたら ひざまずき ひろひとおがんで むせび泣く 人は昔にゃ戻れないピーピーヒャララ ピーヒャララ」や「海を、荒れた海を見つめながら 彼女は呟いた 「わたしは誰?」」などがある(どちらも80年代)が、これらにもすでに甘さが若干見える。テーマを提案、そしてテーマを決定したときにきっとニヤニヤしていたんだろうなあ、と第三者が予想できてしまえば酔狂さはすべてが鈍るが、この二つにはそれが若干ありえるのだ。(それでも名作であることに違いはないが。)酔狂さは必要だが、自己陶酔はあってはならない。これは大学祭のテーマである。一個人の自己顕示欲を露骨に発散させてはいけないのだ、理想として。そして発散させたとしても第三者にそれを悟らせてはいけない。その判断基準が相手を笑わせたか、ではなくどれほどポカーンとさせたか、にある(ただし真面目なテーマである場合にはポカーンとさせてはいけない。酔狂さが重視されるならば、の場合)。相手を置いてきぼりにする、それはテーマとしての機能を最大に放棄する行為であり、もちろん誤りであるように思う。まったくなにも伝えることが出来ていないテーマというのは、それだけならばただの駄作であろう。しかしどれほどに意味を伝えることに優れたテーマでも、唯一負けるテーマがある。それが「歴史に残るテーマ」「記憶に残るテーマ」。どれほどの意味を持たせても、どれほどの思いを負わせても、誰もが覚えてしまうテーマには簡単に負けてしまう。そしてそれはたいてい、無意味で、無価値な、一見ふざけたものなのだ。置いてきぼりとはそのふざけたテーマにこそできることである。そして置いてきぼりにしながらも、記憶に強く残らなければならない。それは置いてきぼりにする距離を、とても増大なものにし、一瞬見ただけで、遠く引き離されるような強烈なイメージを与えなければならないのだ。笑いや涙など他者の反応を期待している時点でテーマは普及する力を持つが、代わりに歴史に残る異質さと鋭さを失っていく。
「ああ自然死〜このナチュラルなもの〜」のものすごさは、その点にあった。実行委員が酔っ払いながら「もうこれでいいじゃないか」と酒でも飲みたいがために早々にいい加減に決めてしまったのではないだろうかと想像するこのテーマの置いてきぼりっぷりはすさまじく、自己顕示欲溢れているはずの大学生がこうしてテーマ決定を手放しでした(実際はそうでなかったのかもしれないが、このテーマが想像させる決定の状況、ということ)ことは、むしろ知性の表れではないかと思える。考えてみれば大学全体が背負うテーマを自分たち個人の表現媒体にしてはいけないのは当然で、しかしそのことを守るのは非常に困難でありながら今回は律儀に守った形となっているのだ(偶然だろうが)。そして結果として私の目にはこのテーマこそが歴代最高の傑作であるように見えている。つまり歴史に残る異質さを手に入れてしまっていた。でしゃばることなく偶然に前に出てきてしまっている、あの高校生のころに見た万年昼下がりの空気と、同じにおいがしていた。