M-1雑念

なぜ楽屋中継で笑いをとろうとしない芸人が大半なのだろうと、毎年思っていた。決勝枠から落ちていくときに悔しがることしかできなかったり、漫才が終わったあとにもう一笑い狙えなかったり、そういうのは人間くさくて心にしみる反面、芸人としての姿勢が時間の流れによってかなり昔と変わったのだなあと思えた。
そんななかで笑い飯は、毎年カメラが向けば笑いを取りに行っていた。だれもがまじめななかで二人だけがふざけていれば「なんだ不謹慎な」と一瞬思うかもしれないが、よく考えれば舞台は笑いの祭典なのだ。緊張の一瞬を待たされている自分たち、敗北した自分たち、緊張のなか芸をやりきった自分たち。よく考えればすべて「おいしい」瞬間である。いつもなら笑いを取れない小さなネタでもそうしたピンと張り詰めた中で使えばどっと笑いを取ることができる。そこで取りに行くのが芸人で、取りに行かないのはただコントや漫才の時間だけ笑わせる職業芸人だ。
笑い飯はその姿勢を今回も、どんなに優勝に近づいても最後まで貫き通した。今回のM−1は彼らにとって最高の結果だと思う。100点を取ったあと松本さん島田さんに決勝にネタ残っていない、というフリをしてもらい、そのフリに応え、なおかつそれを超える結果。すばらしい。M−1というコント作品を見せてもらったかのような結末に、私は笑い飯の芸人魂みたいなものを見た気がした。
  
人間くささみたいなものが大事にされる風潮がある。突き抜けていて意味不明で破天荒な人物より、自分たちと似たような存在、共感できる存在が大切にされて、異質なものは拒絶される。芸人も最近は、自分の番組や、コント、漫才、といった「笑わせる時間」のときだけ芸人になる人が増えてしまった。密着やインタビューといったおいしい瞬間にあえての素をさらけ出し、テレビの中に私生活を持ち込んだ。それでは芸人ではなく単なる「おもしろいタレント」ではないかとちょっとばかり思うけれど、実際、芸人という人生を生きるのではなく、芸人という職業を生きるよう、時代が変わり、芸人というもの自体がかなり変容し始めているのだろう。個人的には笑いに貪欲な芸人が好きだけれど、それはきっと時代遅れなんだ、そしてだからこそ芸人という人生を、これからも笑い飯には奔走してもらいたい。