NHKのMJに出た神聖かまってちゃんがなんとも象徴的だった。

NHKのMJに昨晩神聖かまってちゃんが登場し、最後にはの子さんがひと暴れしていた。ああいうふうに暴れることは60年代のパンクからずっと変らないし、一見変化がないように思う。けれどよく考えてみれば60年代のパンクバンドにとっては対権威に対して唾を吐くのがポーズであり、もしも彼らならばの子さんのあのシーンでは「fu○○'in NHK」か、放送禁止用語を言っただろう。でもの子さんが言ったのは、全国のバンドマンに向けての「今は俺の時代」というメッセージ(うろおぼえ)だった。自分より大きなもの、権威に対して噛み付くのがスタイルだった昔のパンクとはまったく違うし、その姿はものすごく私にとって自然で、わかりすく、共感するものだった。昔から60年代のパンクは聴くけれど、どうも権威に対して唾を吐くスタイルをかっこいいと思うことはない。子犬がキャンキャンほえてるのと変らないように思えるし、なぜ権威なんかが第一のテーマになるのかが理解できなかった。もちろん不条理に対してなにも言わないことがいいというわけでもないけれど、かといって権威と戦うことが当然のように考えられる彼らの視野の広さが、ちょっと不自然にすら思えたし、権威の話をするばかりということは、自分のことは充実しているってことなのかしらん、いいわねーってかんじだった。私にとって自分の見えている世界などとても狭いもので、いうなれば自己完結型であったりする。問題は常にご近所にあり、その中をぐるぐるとさまよっている。そんな中で権威に対して文句を言うというのは、わざわざ背伸びをして、たくさんの問題やもやもやしたもののさらに向こうにやっと見えるものにわざわざつっかかるようなことで、つまり、わざわざ背伸びをしてしんどくないのだろうか、と視野の狭い側からすれば思ってしまうのだ。自己完結で狭い世界。それはもちろん対権威がスタイルだった時代からすればダサいし情けないだろうけれどそれはその時代のスタイルをかっこいいと思っている人の勝手な言い分だ、対権威も別にただのブームだったのだし、今は自己完結なスタイルがブームなだけだ。どっちがダサいとか、どっちが情けないとか、そういう次元の問題じゃないし、そんな大した感覚で、テーマが権威に、テーマが自己に、選ばれたわけじゃない。ロックとかパンクとか、っていうかそんなもんどうでもよくて、根本的に若者の原動力となる「ぶっちゃける」という行為そのものの目的語になるのが、統制されているという意識が強い時代では権威に、そして自意識の強い時代では自分とその周辺になっているだけだ。自然とそうなって、そうなる性質の人がたくさんその時代にいただけ。演奏を放棄して暴れる、という根本的なところは昔と変っておらず、一方ではっきりと発言において違いが現れた昨夜のの子さんのあのシーンは、そんな意味でなんとも象徴的だった。