「若さで書く」から「自分で書く」へ

また、今月の別マガの詩は私にとって今までで一番大きく変わった転換期の作品です。月産2作ぐらいの作成ペースから突如、日産10作ぐらい書いてしまいました。それ以前と以後、どちらがよかったとか、そういうことではなく、「青春」で書く私から、「自分」で書く私、への変化でした。私は詩集で十代の卒業についてあとがきで書きました。そんでもってその変化を夜明けにたとえましたが、それまでが夜だったのかはなぞであり、それからが朝なのかもなぞであります。当時はそう思ったのでしょうけれど、今回の転換期について考えれば、はじめから朝であり、今も朝であり、実家から引越し、ひとりだちをしたような気持ちでしょうか。
変化がやってくるまでは、若さによるエネルギーがつきたととき、私はどうなるのか、という不安がありました。そうした若さのエネルギーはだれにでもあり、天からの賜り物であり、言ってしまえば私自身ではなく、若さというスペックによるもので、自分が書いているのか、若者という存在が書いているのかわからなくなります。また、若さとともにあることは、すでに若さという波で自己を一方向にしか流すことができないのです。未熟であるうちはそれでもいいでしょう、若さの助けで自己を表出させていくことができればいいのですし、若いうちのエネルギーはそうしたことに関して、とてもとても頼もしいです。けれどもし未熟さを補ったとき、その若さの方向が偏っていることに気付き、不自由だと思ったとき問題が浮上します。それが予想できるからこそ、もし若さが不自由だと感じたとき、もしくは若さという後押しが消えたとき、書いていけるのだろうか?という疑問が生じるのです。若さで書く、ということはそうした不安と隣り合わせなのです。はじめのうちは、「なぜ書くのか」もわからず、「何を書いているのか」も無自覚な、完全な無の状態で、ただ自分からあふれでてくるものが面白くて書いていた自分が、次第に意識を持ち始め波に乗れなくなるのはたいへんつまらないだろう、そう想像するとぞっとします。そして、そこから脱しようともがいても、それは意図的な作品を生むことしかできませんし、若さにしがみつこう、としても同様です。だから私にはふと、変化がやってきて、本当にラッキーでした。きっかけなどありません、なんだかふっと変わったのです。世の中って、しあわせですねえ。なので今は若さではなく、自分という存在によるエネルギーが働かせてくれる、つまり自家発電できているということから、あっさり、死ぬまで書けるんだろうなと、(自信とかではなく)たんなる事実として思うようになったのです。ふしぎですね。そして今まで以上に自由になった感じに、わくわくしています。なんだったら、書き始めた当時に似ているのだろうか。
今月の作品は、編集さんが連載だからこそこれをはじめに載せるべきと、転換期の作品の中から選んで薦めてくださった作品で、転換期のものの中でも特に変わったことがよくわかる作品です。来月も同時期の作品が載ります、たぶん。そちらはいままでと同じかんじでありながら、もっと自由な気持ちで書いた作品です。そして変わったと言っても根本は私ですから、今までと似たような作品もあれば、違う作品もあります。偏るんではなく、人間一人分の表情が作品にも出るといいなあと思います。昔から、読んでいて内容がどうこうとかじゃなくて、読んでいる人がふっと作品の中で一人の人に出会えるといいなあ、と思っているので、それはちっとも変りません。出会える人がもっと自由になったというだけです。そしてついでにこの別マガの2作と、たぶん某所にのちのち載せていただく数作が転換期の集大成となりますので、そちらもご覧になっていただけたらうれしいなーと思います。機会があればよろしくです。