夢に一途なのもすばらしい。が、多岐にわたるのもすばらしい。

京大の新入生イベントで「将来のことは自分で決めよう」というテーマの講演会があったらしい。そしてその講演ゲスト(みんな卒業生)が、ハーバード院卒のエリートと、ニートの人と、社長だった。このバランス感覚、さすがだと私は感動した。イベント主催者がニートの人を呼んだのは、反面教師としてでは決してない。明言されていないけど意図はよく見えていた。
あの大学は、学生に教授が「講義に出るなんて、きみたち、暇なんですね」というようなところだ。学生だから講義に出なくちゃ、とか、京大生だから研究者や社長にならなければ、とか、選択肢を自ら限定してしまうことにとても批判的である。なにを選択するか、という問題の前に、なにを選択肢に並べるか、という問題があるということ、そのことに、かなり意識的だ。別に講義に出ることが悪いことじゃない。しかし学生だから、という理由だけで講義に出る人間と、世界一周の旅に出るか、漫画家になるために修行をするか、講義に出るか、といった選択肢から講義を選んで出てきた人間とでは大きな違いがあるのだ。
乱暴に言ってしまえば、選ぶ前なんてまったく無責任でいいのである。20代になると、音楽で食べていこうと思うんだ、とか、白馬の王子様がやってくるのを待つの、とか言っていると馬鹿かと思われる。けれど、第三者から見て馬鹿だろうがあほだろうが、当人が夢見ることは自由であり、馬鹿に見えたりあほに見えたりするからその夢を見てはいけない、なんてのはだれも言う権利がない。大学一年生、受験を乗り越え「ぼくはダークマターを解明する科学者になるのです!」と目を輝かせた少年が、4年後カルト的人気を持つ漫画家として卒業する可能性だってある。夢に一途なのもすばらしい。しかし夢が多岐に渡るのもすばらしい。馬鹿だといわれる夢を見てもいいのだ、それは夢なんだから! 本当に音楽で食べていくためにいろんなものを捨てゆくのか、白馬の王子様を本当に待つために、決して華々しくはないけれど心から好いてくれる男性にお別れをするのかを決めるのはまったく別問題で、夢のうちが花、なにを言おうが勝手であり、だれも損をせず、当人は無責任でいられる。批判する権利はだれにもない。
なのに、京大に入ったのだからエリートになろう、だとか、学者になろう、だとか、まだ選択を迫られてもいないのに決め込んでしまう新入生はいる。そうなれないと負け組だと思ってしまっている人さえいる。そういう人たちに「選ぶ前から選ぶんじゃない」ということをきちんと伝えるために、あの講演会は作られたんだろう。選ぶ前は自由なんだよ、ってこと、その自由がどれぐらい果てしないものなのかを伝えるにはとてもいいイベントだったんじゃないでしょうか。(見てませんけど)