主観と客観の混同

客観的な質問に主観的な回答をするひとがいる。たとえば「世界一うまいギタリストはだれか」という質問に対して、「私が好きなギタリスト」の名前を言ってしまうようなひと。けっこうあちこちで見かけることだけれど、主観と客観が混同されているなあ、っていつも思っていた。世界一うまい、っていうのは世界一好きな、って意味ではないのだけれど、それを一緒だととらえてしまう。そういう人を見ると、すごくそのギタリストが好きなんだな、っていうのは伝わってくる。大好きだから混同するんだろうな、って。でも私だって世界一好きなバンドはあるし、そのギタリストは大好きだけれど、だからといってその人が世界一うまいギタリストだとは思わない。それはべつに盲目的になるほどの愛情がない、とかそういうことじゃなくて、単にそんな形容なんて、わたしの気持ちを言い表すためにまったく必要がないからだ。かれらより愛情が乏しいわけでもない。負けてなんていない。わたしはそのひとのギターが大好き、それだけできちんとすべてが言い表せているから、他に言葉がいらないだけ。
こういう混同がおきるのはかれらの視野が狭いとか、客観視が出来ていない、とかそういう問題ではないのだと思う。かれらは主観的な意見、「好き」や「嫌い」という気持ちを、さらにもっと誇張して伝えようとするときに「大好きで大好きで大好きなの!」と言うのではなく「世界でこの人は天才と認められたんだ!」とか「10億人がこの人の本を持っている!」とか、自分ではなく他人の評価を持ち出す癖があるんだと思う。つまり彼らは、「好き」と言うよりも「1億人が認めた」と言うことのほうに愛情の説得力があると思っているのだ。たとえ好きじゃなくっても、世界中が認めたならすごい、たとえ大好きでも、オリコンにかすりもしなければ友達に話すことも恥ずかしい。だから、逆に客観的な質問に対しても、自分の気持ちで答えてしまう。主観的な意見の延長線に客観視があると思っているから。でもこれって、ものすごくむなしいことじゃないのか? きみがそのひとやそのものを好きだって気持ちは、たかが60億人が認めたって事実程度に負けてしまうものなの?
愛情っていうものは、「たとえ60億人がきみを嫌いになったって、わたしだけは味方でいるよ」っていう気持ちになれることだとおもう。60億が束になろうが、客観的な意見なんてものを簡単に凌駕できるのが、愛情であるはずだ。それなのにその愛情を語るために、認めた他人の数や、他人が作り出したランキングを持ち出さなきゃいけないなんてなんて悲しいことだろう。きみがそれを好きだって事実が、いちばんその気持ちを言いあらわせているというのに、どうしてまっすぐに宣言できないのだろう。きっと、ただ好きと言うだけじゃ、どうしても伝わらない、って思ってきたからだろう。でも、どれだけ伝わらなくたってずっと「これが好きなんだ」って言っていたいとわたしは思うよ、わたしがそう言っている、ということだけで振り向いてくれる人がいたら、そのひとと話してみたいから。そのひとの好きなものも聞いてみたいから。