世界のためになりません だれの役にも立ちません

昨日は受け手側としての娯楽について、書きましたけれど、物をつくる側の人間としては「表現は世界を救わない」と思っています。もちろん昨日わたしが書いたように偶発的に個人が救われることもあるでしょうけれど、それはあくまで個人ですし、偶発的なものです。あの時も書きましたが、バラエティー放送を非難するひとがいるのはあたりまえだし、そのひとたちのことを否定することなんて絶対に出来ません。だってYESもあればNOもあるのが創作です。創作は正義になんてなりえません。あたりまえです。そういう部類のものじゃないんです。ものを作ると言う行為は、ただそれが好きだからやるものだと、私は思っています。違う人もいるだろうけれど、私の場合はそうです。だれかのためとか何かのためとかそんな気持ちでやったことなどありません。やりたいからやってきました。むしろそう思わないとやっていけないのです。そして、それだけの気持ちで続けてきたことに、「ひとのために」なんていう後押しを、いまさら得ようとは思いません。これまでただ好きだからやってきたのに。私のやる創作はいつだって、なーんのためにもならないものです。もちろんこのことに関しては、人によって意見はばらばらなことだと思いますが、私はそう思っています。人を笑顔に出来たとしても、それは結果論です。そうなればとても幸せなことですが、目的にはなりえません。
昨日、東北高校が開催されるならば選抜甲子園に出場することを決めたとニュースで知りました。野球やってる場合か、とか、言う人もいると思いますが、震災で甲子園を辞退するとしたらそれは、球児の夢すらも震災に飲み込まれてしまったということになってしまいます。かれらが出る、と決めた以上、飲み込まれてしまうことだけは防ぐべきだと思いました。まだ夢は震災にうばわれていないのだから、せめてそれだけでも遂げさせてあげたいと。最初、せっかく出るならば、地元の人たちのエールになるようないい試合を、とも思いましたが、ちょっと違ってましたね。間違えました。エールをするために試合に出るわけではないのです。あくまで球児たちのこれまでの努力と、夢を叶えるために、甲子園に出るのです。エールにならなくても、いい試合はしてほしいです。震災がなければ、ただがんばれ、これまでの努力をぶちかませ、そう言えたんですから、震災があったって、そう言ってあげたいです。かれらがそれを望むなら、ですが。もちろん、こうした緊急事態に甲子園へと送り出してくれる地元のかたがたに球児たちはきっと感謝し、この人たちのためにも、って思うでしょうけれど。
震災に負けないっていうのは、被災地の人たちにできるかぎりの援助をすることももちろんだけど、自分たちの日常や平和、夢や希望を守りきることでもあると思います。そして守りきるべき「日常」の一部に、創作活動は入っていると思います。球児たちの夢も、日常の中にあったものでしょう。もちろん、守ると言ったって、日常を続けるにも勇気が要ります。被災地のかたに申し訳ない、と思ってしまうことも多々あります。でも、日常を放棄して、なんになるんですか。被災地の人が喜ぶんですか。ひとを救いたいなら、もっと直接的にできることがいっぱいあります。それをし尽くしても、不安であることには変わりないですが、だからといって感傷的になる必要はどこにもないように思います。というか、必要がなくても感傷的にはなってしまうものです。しかしむしろ外部の人に必要なのは、感傷ではなく理性なのです。だから、こらえたいとおもいます。それに、被災地のかたがたは、以前の日常に戻りたくて、これまでどおりに好きなことをしたいのに、それがすべて叶えられる私がその権利を放棄するのってなんか……よくわかりません。そりゃもちろん、私が阪神被災したときは、京都や大阪に出てきてみんなが結構普通に日常を生きているのを見て「なんで私だけ…」ってちょっとさみしかった気はします。でも被害もたいしたことない土地の人に「つらいつらい、あなたと同じ、いっしょよ」とわざわざ言われてもなんにも嬉しくなかったでしょう。私がさみしくおもったのは、外部の人と共感できないことではなくて、ただ、局所的に自分が被災したのだというショックゆえだと思います。被災者でもない人たちに、無理に共感しようとがんばってもらいたいなんて少しも思いませんでした。食べられるなら食べたほうがいいし、遊べるなら遊んだほうが良いです。だって私は食べたくても食べられなくて、遊ぶ時間も場所も相手もいなかったんです。食べたかった、遊びたかった。それなのに、目の前に食べれるのに、遊べるのに、それを放棄している人がいる。うれしいでしょうか。共感できるでしょうか。なんか無理させて申し訳なく思います。それだけです。だって自分と同じ状況の被災者たちが被災地にはたくさんいて、その人たちとずっと共感し合い、助け合ってきたんです。そうしたことは内部の人たちで支えあっていくものです。(まあ、でも、被災者代表みたいに話をするのはとても危なっかしいことなので、私は当時そうだった、というだけに留めておきたいです。でも、感傷が被災者の助けになるとはやっぱり思えない。もし感傷が必要なときがあるとすれば、復興した後に、被災者の友人や、知り合いのそのころの気持ちを、うん、うん、って聞いてあげるときだと思う。)
他の阪神被災者の方が「被災地の外に出たときは、そのギャップにショックも受けた。しかし被災はあくまで個人的なものなのだと自分に言い聞かせた」と書かれています。私もそう思います、被災はあくまで個人的なものです。個人的なものなのに、外部のひとが無理に自分と同じレベルにやってきて「わかりますー」って言われてもだれもうれしくないってことは、コンプレックスや悩み事などでみんな経験があると思います。それと同じです。被災地の人と共感が出来るのは、被災地の人だけです。もう、これは絶対です。悲しいことですが、それぐらいの「距離」を人と人に与えるのが災害なんです。被災者以外の人に共感なんて絶対に出来ないのです。だからこそ外部の人間は、理性にのっとり、論理的に、被災地に必要なことを考え、自分が出来ることを探し、実行するんです。別に感傷的になったりする必要はありません。「わかるよわかるよー」って伝えることは自分たちのできることではありません。外部の人間は一生懸命日常を生きて、一方で、論理的にやるべきことをさがす、それだけです。心の支えになりたいのならば「頼もしい!!」と思ってもらえるように、きりっと生きるほうが現実的だと思います。正直言って、最初、私は当時自分もつらかったなあ、とかいろいろ共感したつもりでいました。いまだって、ちょっと気をゆるめれば、感傷的になってしまいます。でもやっぱりそれって意味ないな、と思いました。しかも共感なんてちっともできてないな、できたつもりでいただけだな、って思いました。だから私は今日もご飯を食べるし、眠りますし、だーれの役にも立たないけど、ものを作ります。(援助に支障がない限りは。)そして、できることを探し、実行し続けようと思います。