「正義」がこわい

3年前から書いててそろそろ出来そうな小説に地震がちょっと出てくるんだけど、もうすぐ完成して世に出せたとしても、「実際に地震が起きたから、その影響で作中に地震を登場させている」とか思われるんだろうか。そういう意見を目にするまで、思いつきもしなかったけど、そういう可能性があるのか。まじか。現実と虚構はまったく別物であるのにな。虚構が現実に即してもなんにもならない、自粛することも影響されることも、どちらだって。これはもちろん、書き手にとってとても大事なことで、私なら想像より現実をたよりにしてしまうなんてことは絶対にしたくないっていうか、思いつきもしないっていうか……。しかし作る側がそれを徹底していたって、解釈する側が平然と誤解してくるのでもうどうしたらいいのかわからない。こちらとしてはそんな誤解はあまりにも屈辱的だというのに、簡単にレッテルは貼られてしまう。
私は阪神被災者だったから、崩壊シーンとか書くと「被災の経験が」とか思われることが多くあります。「現実にすりよって書かれたものなのか、そうではないのか、それは見ればちゃんとわかる」なんて嘘です。本人にしかわかりません。私が被災者であるときは同情による誤解でありますが、被災者でなかったひとたちは当時どうだったんでしょう。不謹慎とか、言われたのかな。怒られたのかな。何年もかけて作った作品なのに、地震をネタにしおって、とか言われたら私なら許せません。本当に許せない。でもきっと反論しても聞き入れてもらえないんでしょう。なにせ相手は「正義」のつもりで憤慨しているのです。「悪」とみなした人間の反論なんて、ちゃんと聞いてはくれません。しかし本当は「正義」の反対もまた別の「正義」なんですね、いろんなところで言われていることですが。「悪」ではありません。それをちゃんとわかってないで、どうして「正義」のつもりでいられるのか。他の「正義」を傷つけたり、妨害したりする可能性を配慮し、その責任をすべてちゃんと自分で背負うのだという覚悟も、正義を貫くには必要なものだと私は思うのですが……。
とにかく今回だって、私の立場が「被災者」ではなくて「外部の人間」にかわるだけで、状況は何も変わらないでしょう。地震を書けば「東北地震があったから書いたんですね」と言われることもあるでしょう。地震がでてきた作品はどれもそういう扱いを受けるのかもしれません。実際に現実にすりよって書かれたものなのかどうかなんて、だれも正しく判断できないのに、自粛や非難が飛び交って雑音まみれになるんです。虚構の世界なのに。現実とはまったく別の虚構の世界なのに……。現実と虚構の住み分けもできない、ってこのことだと思います。実際に現実にすりよるひとはいるかもしれませんが、他人がこいつはどうなのかなんて判断できるわけがありません。私は無意味で的外れな被災者扱いを、作品の解釈に持ち込まれることが多々あった。だから断言できます。そして、こうした解釈は「正義感」によるものだから、なに言っても消えやしないともわかっています。正義感も立派な暴力になりえるってこと、知らないでふりかざす人多すぎるのです。正義の反対は、別の正義。自分以外が悪ならば、正義を貫くのも楽ですが、世の中そんな単純じゃありません。