私が生きているか死んでいるかも個人情報やねんで。

親にねんどろいどまどかかわいいでしょーって自慢したら、「かわいい!」っていわれたし、平和や。この世は平和や!
   
複数人物が出てくる物語を作るときは、その人数分の起承転結をかんがえなあかんのであって、物語の道具としてしか人物像を準備してないのはなんか作っててつまらんなーって気づいた。
MONSTERの人物設定見てたら、すごい感動する。キャラクターの人物説明を並べて読んだだけで、なんか物語が勝手に頭の中でうかんでくるのだ。人生一個分つまってそうな、そしてこれからの人生も見えてきそうな濃い設定がある。濃い設定はどうしても、平均化されるか、よくある前衛さに傾いていっちゃうんだけど、それもなくて、ほどよく華があるキャラクターばっかりやなあ。しかもキャラによっていろいろだし、全体でどこかに偏ってもいないし、こういうバランスのよさは、人生経験ゆえと言ってしまえばすべてだけど、なんでもかんでも人生経験ありきにされるのはへんやーと私は思っているから、あんまりそう考えないようにしてる。
   
なんやろなー、人生経験ありき、とか、作家の人生削って、それが作品になるんだ、っていう考え方、もちろんあるとおもう。間違ってはいない。でもこれって、言い方によっては、女優が裸で演技した、っていう情報だけで「すばらしい演技!」「魂がこもってる!」とか言ってるのとちょっと似てるとも思う。たしかに演技のためなら恥じらいなど捨ててしまうわよ、という女優の演技への覚悟はかっこいいし、その人のすごさを否定するつもりはないけれど、でも、それはその人の覚悟がすごいのであって、演技はまだ見てないからすごいかどうかわかんないわーすみませーん、っていうのが本当は正しいんじゃないのとも思うのだ。なんで「脱いだからすごい演技」みたいな結論に達するのか私にはよくわからない。覚悟なんて全然ないしぼけーってしてるのに、ちょうすごい演技する人がいたら、私はすごい!っておもうけど、ちがうの?っておもう。
あたりまえだけど、脱いだことが演技のよさをきめるわけではない。その人の覚悟の程はなんとなくわかるかもだけど、その人だって、覚悟がすごい事を見せたいんじゃなくて、いい演技を見せたいんでしょ。たとえば、俳優さんがこの映画のために体を20キロやせました、って言ったとき、その人は自分のダイエットショーを見せたいの?ってわけです。映画での演技には何も言われなくて「やせるの大変だったよね、すごいね!」って褒められて嬉しいのかって話ですよ。覚悟ってこれと同じで、舞台裏の話であり、準備段階の話であり、お客さんに見せるものではもともとないわけだ。評価の対象ではないわけだ。そんな部分を根拠にして褒めてもどうしようもないんじゃないのってわたしはおもうのです。もちろん、それぐらいの覚悟があれば、いい演技ができるようになる可能性はちょっと上がるのかもしれない。人生を注ぎ込むわけだから。でもそれはあくまで可能性で、受験だって、合格可能性80%でも、おちたら褒めてもらえないんだし、やっぱり、結果が大事なんだ。
結局私が言いたいのは、服を脱がない女優がすごくない、ってことにはならないし、つまり人生を削らない作家がそれだけで非難されるのは意味がわからないってこと。ただ、人生を削れ!っていうアドバイスを他人にする人は、たぶん前述した可能性をあげる、という目的のために言っているんだと思う。つまり、それぐらい大変な事をしろ、って言う意味より、そういうことしたほうが楽だよ、って言っているんだと思う。近道教えてくれてるんだろう。ぶっちゃけ、人生を削らないでいい作品を書くのって、人生を削るより難しいんじゃないかと思うもの。服も脱がず、自分自身のやりたくないことはひとつもしないけれどすばらしい演技をする女優がいたら、それはすごいと思うし、それって最良の結果なんじゃないかな、とも思う。人生を削るってことは、なにかが減るってことだし、何かを失うってことだ。でも、この場合はだれも、なにも失ってないんだから。
(それと、これはこれである意味覚悟があるってことだと思うので(言い訳がきかないので)、そういう点からすると、こういうひとが服を脱ぐ覚悟をしたらもっとすごくなる、とかは私は思わない。)