きみはどこからきてどこへいくのか、それはわたしにはわからない。

風の谷のナウシカ、見たはずなのに覚えていない。なんていうか、衝撃とかうけた覚えもなくて、そもそもちゃんと見てなかったのかもしれない。映画は時間がうすくのばされてしまっていく感覚があってみるのが苦手なんだ。それで、風の谷のナウシカのマンガ版が家にずっとあって、でもずっと読んでなくて、このまえやっと読んだの。なによりもナウシカの尊いところは、だれもナウシカの頭の中を理解できていないところではないかしらと思った。作中でも現実でも。私も最後までわからなかった。まったくわからなかった。けれどだれもがわからないでいる人物を描くことは何よりも一番むずかしいのだ。現実では「わからない人」など山ほどいるというのに、それをそのまま理解するためのフィルターに通さずに、創作へと落とし込むことのむずかしさ。ほとんどの創作物には「わかる人」しか住んでいない。どういうひとか、ここにいたらなんというか、なんとなく想像できる人しか住んでいない。しかしそれがもっとも、物語の中に住まう非現実性であるかもしれないね。
   
人はそもそもわからないものだ。だれもわからないのだ。妙な解釈を人にしようとする人間はだれもが乱暴だ。どんなに理解力に自信があってもそれを人に向けてはいけないよ。それで1つぶも自我を切り落とされずに、理解される人間はいない。だれもがいろんなことを切り落とされて解釈されているんだろう。
私が創作物のなかにうまれていたら、たぶんきっとつらくて必死に描写の視線から隠れていただろう。