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 オリジナリティの不確定要素

創作をするうえで、自分の作るものが誰にも似ていないと信じるか、それとも似てるんだ自分にはオリジナリティなんてないと考えたうえで過去の作品をどんどん読んで経験値をためるか、という話があって、もうこれは教科書的に言うと、そして合理的・効率的に答えを探せば「似てるかもしれないと認めていろんなものを読め」という答えになるのは当たり前なんだと思う。それがスポ根みたいだとか、そんな単純にいかないのが芸術のおもしろさだろ、とかいうひとたちの気持ちもわかる。っていうかこの答えは「だれにでも」「効率的で」「失敗がない」方法として提示されたとても良心的なものなので、例外はあって当然だと思うし、自分は例外だから、って例外の道を進む人がいてももちろんいいと思うし、でもそれは失敗することがほとんどだよね、自己責任だね、という話なんだろう。
   
私は、自分が誰にも似ていない、ってことを信じてどこまでも行ってみるのも一つの冒険だとは思うよ。結果をだすことよりも信じることがその人にとって重要なら、つまり、いい作品を書くというより、書くということが楽しくて、それをずっとしていたいなら別に信じて失敗して、でも信じ続けていいんじゃないかって。信じるって、それはそれで孤独だし、暗中模索だし、疑心暗鬼だし、つらい。でも、それで光が見えたらとてもうれしいよね。なによりもうれしい。作ることの醍醐味じゃないかとすら思うよ。作る、ことはそもそも、自分の才能を信じることがはじまりで、実際にその才能がだれかに「あ」と言ってもらえたら、ウワーン!って泣くほどうれしくなるよね。(ちなみに私が書きはじめたころに言われてうれしかった褒め言葉は「だれにも似てないね」だったなあ。)だから、そうしていたいって人の気持ちはわかる。
ただ、そもそも前述の答え、っていうのは「いい作品を書きたいならどうするべきか」という話であって、書きたいから書く、という人は対象ですらないんだよな。書きたいなら好きに書けばいいのだし。けれどこういう考え方の人が、本当にそれだけを考えていられるのかもまた別の話で。欲が出るよね。欲が出る。書きたいから書いているだけ、という人、誰にも見せずにただ書き続けているような人は、ほとんどいないね。
    
いい作品を作るということではなく、ただ作るということ自体が目的になっている人にとって、自分が誰にも似ていないオリジナルだと信じることは幸せな娯楽だ。ただ、100%そう思っている人もほとんどいない。大抵の人はだれかに見せたがるし、いい作品だね、って認めてももらいたいと思っている。そして、「だったら」という話になる。「だったら」と冒頭部分の話になるんだ。
私は、恥ずかしながら、自分は誰にも似ていないオリジナルだって信じているタイプの人間で、それをほとんど直さずにこれまでやってきたし、勉強不足って問題よねという話を聞くと、ごめんぬぁさぁぁいって半泣きになる。だっていままで書いてきたのは、はじめて書いたら「いいね」っていってもらえたからで、それがうれしくて、それからも「いいね」って言ってもらえるたびにそれらの言葉と自分を信じて、書いてきた。だから、自分を信じたい、ってなるのはどうしても自然なことだった。たぶん、いい作品に触れて「自分もこういうのが書きたい」って思う人とは根本的に違うと思う。読むことが書く動機だった人と、書くことが書く動機だった人は、価値観が違う。読むことが動機の人もたしかに自分を信じてはいるけれど、それ以外にもはじめから、理想とか、憧れの作家とか、好きな作家とか、具体的な期待とか、具体的な夢とか、いろんなものが心に詰まっている。でも、書くことが動機の人って、はじめは「自分を信じる」ことしかない。だから不安がるんだろう。読む、なんていう簡単なことを不安に思うんだ。でもそれは(人によっては)、ただナルシストなだけではなくて、単純に、武器が少ないから、なんだと思う。自分を信じることしかなかったから、それを捨てるのが怖いんだろう。(しかしだからといって、捨てなくてもいいものが書けるのか、これで、という不安は残るのだろう)
    
別にね、こういう話に答えなんてあるわけないし、進路どうしたらいいですかってきいてくる生徒のようなもので、最後は好きに決めたらいいと思うんだけれど、個人的な話をすれば、私は、別にだれにも見てもらえなくていいなんて思ってないし、読んでもらえたらうれしい。そして、それならば、自分だけでなく他人にも「似ていない」って思ってもらわなきゃだめだ、と考えている。だから「だれにも似てない」とか「宇宙人に見える」とかそういう風に誰かが言ってくれるたびに、「もうちょっと、私、書いていいんだ」って安心する。
(あ、それと、全く読まないわけじゃないよ、私は。読書家ではないけど。)