コンテンツちゃん、人になる。

現実の友人をネットで見ることに抵抗感があるので、私は古いのかもしれない。親しみある人物が、ネットコンテンツに成り果てているように見えていたたまれないのだ。でももしかすれば、ネットに存在する人間が「人間」ではなく「コンテンツ」にしか見えない私は逆に新しいのだろうか。よくわからない。だいたい新しいとか古いとかいうのは、2億年後の新たな生命が勝手に決めることだったりする。
インターネットにとってぼくらは、登場人物ではなくコンテンツであるということ。それが恐ろしいという人もいれば、気楽だという人もいる。「人間」であることよりも、「コンテンツ」であることのほうが、ある点では気楽で、そしてある点では冷酷だ。生きているだけである程度の価値を付加されていた人間時代と違い、コンテンツ時代は、簡単に切り捨てられてしまう。残酷だ。そしてだからこそ、人は、あわてて「人間」に戻ろうとするんだ。馴れ合いの中に戻ろうとする。自分たちの価値を無条件で手に入れようとする。きっとこんな右往左往が永遠に続けられていくんだろうな。
   
あかるい未来、そんなものはない。どんな時代も日照時間はかわらない。