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作りましょうましょうましょう

作ろうとしたこともないひと、作ったこともない人が、「俺が作れば傑作ができる」と思うのは、よくあるばかげた話だけれど当たり前のことで、すべての人が、作る前には「これから作るのは傑作だ」と信じている。あたりまえだ、想像の中でなら、本来なら厳密にきめなければいけない細かい部分は都合よくあいまいにぼかしておけるし、矛盾も無視できるし、作りたい部分は、想像した通りに100%で実現できると信じている。けれど実際に作り始めると、頭の中で想像したものをそのまま100%、アウトプットすることは不可能だとわかるのだ。作り始めてからこそが、本番なのだ。すべての意味で。
自分の中で想像していたものを、アウトプットしようとしたさいに、それがそのまま100%で、外に出せないことにはじめて気付く。どんな人間だってそうだ。頭にプリンターでもとりつけて、ウィーンと印刷しない限りは、思った通りのものなど100%では実現できない。そしてそんな状況からどうやって、想像の傑作を、現実のものにするのかが勝負なのだ。頭の中にはだれだって傑作があるし、作る前がだれだっていつだって幸せだ。作るという作業は、その傑作を、どこまで駄作なんかにせずに外に出しきれるかという勝負なんだ。つまり、永遠に作ろうともせずに、その頭の中の傑作を、誇っているのが幸せなのは、だれだってそうなのだ。
そして、本当のところ、作り始め、幻滅し、アウトプットできないと思い知り、そこから突然、全く違うものが生まれるのが、本当の醍醐味だったりする。想像していたものと全く違う、そして、劣化したわけでもない何かが零れ出て、それが作品になっていた時、作るっておもしろいなあ、と思えるんだ。そのことをしらず、作る前の、想像の中の傑作に見とれ、その、目の前の小さなうまみに妥協してしまい、この大きなうまみを知ることもない人たちは、滑稽である。ばかばかしいとか、怒る人もいるけれど、滑稽なのだ。なにも、怒る必要はない。客観的に見れば作ることを知っている人のほうが、充実しているのだから。
作る前の設計図を引く段階って、本当に何も始まっていない。想像以上に何も始まっていない。私は、そう気づいてからずっと、とりあえず作り始めるようにしている。最初の一行を書きはじめるようにしている。設計図なんてなんの意味もない。油断するだけだと思っている。よし、これでいいものができるぞ、と思ってしまって、必死にならなくなる。くだらない驕りが生じる気がする。その驕りを消してあらためて0から作り始めるまでの時間が、無駄にしか思えなかった。そして、なによりも、脳の表面でぐりぐり考えるより、全部感覚に任せ、脳全体の本能の部分、潜在的な部分にまかせたほうが、なんとかなるのはある種、当たり前のことだ。