すてきな凡庸の十代。

「表現する人に、完成度とか、世界観の深さとか、そういうのはいらないから、ずっと、未完成でぶかっこうで、いろんな影響を受けてきたことを隠しきれなくて、それでも棘みたいにはみ出してくる、自意識のするどさみたいなもの、幼さみたいなもの、見せていてほしいって思うのはわがままなんだろうか」
「わがままだよ」
   
昔、十代のころはみんな大体おなじよーな悩みとかいら立ちを抱えていて、そういう凡庸な部分をもっているからこそ、どんなに尖った感性の人でも、どこかで一般の人が共感できるものを作れてしまうんだって、書いたことがある。尖った才能があっても、それだけじゃあ、作品は人に届かないと私は思っていて、そこにはわずかにでも「凡庸さ」が必要なんじゃないかって。凡庸さが共感を呼ぶし、才能が記憶に残る。そんなかんじ。どっちが欠けても、他人に届けるには不十分で。たとえば、凡庸さが共感によって受け手の心のドアを開けて、才能が、受け手の心の中に置き手紙を残すイメージだね。ドアを開けなきゃ手紙は置けないし、ドアをあけても手紙が置けないなら意味がない。そして、才能と同様にして、凡庸さも実は、とても手に入れにくいものなんだ。
十代のうちは、凡庸さには困らないでいられる。みんな、そのころは同級生の見ている世界がすっごく狭く見えたり、クラスに溶け込めないことに劣等感を抱いたりして、自分は同級生とは違うって、苦しそうに、時には誇らしげに言うこともあるけれど、実はみんなよく似ている。特別な子なんてどこにもいなくて、だいたい同じようないら立ちが、頭の中で渦巻いている。そしてそれは恥ずかしいことではなくて、武器なんだ。どんなに尖った才能をもてあましていても、技術がそれに追いつかなくて、未熟な物ばかり作ってしまっても、みんなが反応してくれる「凡庸さ」を軸に埋め込むことができるんだから。この貴重さに気付くことは、きっとその時期にはできないだろうし、できたらつまんないんだろうけれど、でもいつか、とにかくいつか、「あのころもっとたくさん作っておけばよかった。駄作でもなんでもいいから、たくさん作っておけばよかった」って思う日がくるのは、88%本当。