拙者、字名は最果タヒ。リリカルを生業として候。

拙者、字名は最果タヒ。リリカルを生業として候。という下書きがあってTwitterに投稿したら思ったより反応があっておもしろかったです。リリカル。リリカルってなに。詩人とか小説家とかよりはしっくりくるけれども。
  
肩書きというものがよくわからない。他人がその人を語る上でタグ付けしていくような、そんなものだと思っているのですけれど、どうなんでしょうか。もちろん実際には、作品を発表していくような状況にいると、どうあがいたって、自分をどう見せていくかということに無自覚ではいられないし、私も雑誌で原稿書くときなんかには、「親切」のためにプロフィールとかで書いていく。だって私のことを知らない人が、私のことを知るためにプロフィールを見るのだ。そこで私の自意識のために何を言いたいのかすらわからないことを書くわけにはいけない、とも思う。(という自意識を超えた新たなる自意識がここに。)
ジャンル分けや肩書きや、そういうものは、なんか、変な感じがする。音楽だって聴く人のために「ロック」とかいうジャンルがあるのであって、決して作る人がそこを目指して作っていくようなものではないはずで。ただ作っていったら、客観的にはあるベクトルを持っているように見えて、それを消費する人たちのためにタグ付けが行われていく。それだけのもの。あくまでの消費のためだけのもの。だから、まあ、ジャンルのために作り手がいるわけがないし、作り手がジャンルのためになにかをする必要はないと思っている。なんとなく、ジャンルは星座みたいなもので、すでにできあがっている結果を、観測者が観測者自身のために区分けしていくようなものだと思っています。どんな星も、星座を作るために生まれてきたわけがないし、観測者からは偶然にもそう見えちゃった、っていうのがロマンチックの肝だと思うのです。えーっと、これちゃんと例えになっているのかな。伝わっているのかな……。まあとにかく、無数のものづくりの集合体が見せる総合的なベクトルがジャンルを形成していくのであって、個人がベクトルを意識する必要をあまり感じないなあ、だから「リリカルを生業」とかふざけたくなっちゃうなあ、というお話でした。どんな話だ。