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削れ、ペンを。削れ、命を。

自分以外の誰かに、なりたい、という感情が昔からわからない。その人自身になりたい、その人のようになりたいというほどの憧れに、身を焦がしたことがない。なんだか「生きる」こととは程遠く思えるのだ。誰だって自分の100%の代弁者とはなり得ないはずなのに、どうして、誰かの言葉を借りようとするのだろう。自分がどれほど薄っぺらくつまんなくても、同じ世代の子達が登場する歌や物語に共感して、その通りと頷くだけでいいわけがなかった。好きな食べ物・小さな癖、ちっぽけでも自分自身しか知らない、自分にしかわからない部分が自分には必ずあって、言葉でも映画でも音楽でも語りきれない存在が、自分なんじゃないのだろうか。そう、信じていたかった。簡単に「わかる」と、「共感できる」と、言ってしまうことで自意識が満足してしまうのが怖かった。大して特殊な感性を持っているわけではないかもしれない。けれど、私は自分の言葉を放棄することが怖い。それを探し続けることが、不器用に何度も言い直すことが、生きるってことじゃないのか。そう、高校生のころ思っていたのだ。
  
素晴らしい作品に出会った時、この世にはこの作品が存在していれば私なんていなくたってきっと問題はないんだという絶望的な気持ちになる。その作品の存在に圧倒されて、自分の存在価値を見失うのだ。そんな、ただの考えや気持ちを代弁してしまうだけでなく、「自分の存在」そのものを代弁しているかのような作品との出会いは幸福なものだ。これこそが人生を変える作品というものなんだろうと思いながら私は、圧倒されるたびに、世界にしがみくように作品を作りはじめていた。消えないよう、生き残ろうとするように、意識を尖らせていた。作品鑑賞は私にとってはいつだって、作品世界と自分の自意識のぶつかり合いで。あなたの表現があれば私にはもう語る必要なんてない。そう思ってしまうことが、私には敗北にしか思えず、「自分」を見失わないように、ペンを持った、言葉を書いた。だからこそ私を、圧倒する作品との出会いは幸福だ。もがくことで自分自身の輪郭が、浮き彫りになって、自分の言葉が導き出される。例えればきっと、私は鉛筆で、世界は鉛筆削りみたいなものだろう。作品群に自意識を削られながら、それでも尖り続け何かを書き残していく。「生きる」ってことだ。