読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ストーリーテーラーは必ず記憶喪失に。

時々わからなくなることがあるのだけれど、小説とは一体だれがどうしてなんのために記述したものなのだろう? ということで、シャーロックホームズシリーズはワトソンがホームズの活躍の記録を残す意図で書いた小説、という設定があるけれど、そうではなく、一人称で書かれていながら、その一人称の主が自分の周囲のできごとすべてが小説として記述されていることすら知らない場合(っていうかそれがほとんどだけども)、その言葉はどのような理由で、「書く」という行為に至ったのか? そこが気になってくる。いったい誰の意思で、形として残されることになったのか? それはもちろん、「作者」の意思であり、「読者」の意思もきっとあり、「編集者」の意思だってあったのだろう。でも、それだけだ。登場人物は知る由も無い。つまりそうしたときに生まれた小説とは、読まれること・消耗されることを前提として書かれ、存在の根拠は物語の外にしかない。内容はあくまでその物語世界のできごとをつづっているのにその小説自体は、その世界には存在すらしていないことになっている。そうしたメタ的な感覚は、物語を書いて、没頭しすぎると忘れてしまって、時々、なんのために書いているんだろう? と記憶喪失みたいになるのです。まあ、書くのが楽しいからなんですけれど、書くのが楽しいから、というのは結局作者の都合でしかないので、なぜこの物語はおとなしく書かれているのか? ということ、物語の内側にとって私に書かせなければならない理由はあるのか? ということ。小説の存在からなにから、すべて物語の外側の都合でしかないことに、ときどき怖くなるんですよね。たぶん、宇宙の外側には「空間」すらないとか言われた時の途方もない感覚に似ているんですけれど、怖くないですか? なんだかすべてがとてつもなく無意味な気がしてくるんですよね。どうあがいても、関与してくるのは物語なのです。我々は物語に干渉できない。ただ観測しているだけ。締め切りがあって、記述しなくちゃいけなくて、でも、向こうはそれを知ったこっちゃないってかんじでいる。なんか、向こうの方が…本物みたいじゃない…?なんてことまで思うときはよっぽど疲れた時限定ですが、まあ、ちょっと混乱、変な感覚にはなるのです。別に物語なんて現実のための消耗品なんだからいいじゃん、って言ってしまえばおしまいなんですが、でもこういうのも、物語というものを書く面白さのような気がして、だからそういう時は割り切らずにぼーっとしてみることにする。すべてをコントロールしているつもりで、本当は自分の自由には少しもなっていないような、そんな感覚になる時、物語を作るのってこういうかんじか〜変なの〜ってちょっとだけ分かった気がするのです。(未熟者なりにね。)