フレンドリー不要論

たぶん料理人の人がわざわざ野菜切るのをめんどくさいって思わないのと同じように(いや聞いてきたわけじゃないけど)、私も言葉を書くことに慣れすぎたのか麻痺したのかもはやめんどくさいと思うことはほぼなくて、ただぼーっとしてるほうが苦痛なのですが、それでもどうしてか事務的なメールだけはめんどうでしかたなく筆が進まないというあの現象が発生する。多分、私は書かねばならぬという状況が苦手なんだろうと思う。(原稿とかは依頼があってもなくても書くのでこの状況には当てはまらない。)別に、仕事上の連絡だけなら大丈夫なのだけれど、ある程度の愛想や礼儀が必要になることがどうしても苦手で、定型文というものに頼りっきりだし、でもその効果をちゃんと発揮できているのかすらわからない。ああ。やらねばならないことというのはどうしてこんなにも蝕んでくるんだろう。お風呂に入るにしたって、入ろうと思ってから実際に入るまでのタイムラグがひどい。(ちゃんと毎日入ってます)入ったら入ったで動くのが面倒で出なくなり、多分そのうち私は湯船に溶けて消えるのでしょう。おわってるで、ほんま。こういうのはよくない、とつねにおもっていたのだけれど、どこまでがよくなくて、どこからはしかたがないのか。きっちりみっちり前髪は揃えていないといけないのか、三食ちゃんととるべきなのか、そのへんがわからなくなり、だからぼくは植物を枯らすんだよああー!っていう叫びがこみ上げてくるんでした。ルーティンが無理なんだ。どうしてやるのかの動機付けがどんどん甘くなって、なんとなく毎日やることになっている、っていう行為が苦手なんだ。花に水やるのとか忘れちゃうしね。生活ってすぐにルールになるから嫌だよ。ルールになる前の、あ、あれやろっ、っていうかんじがいいのになあ。はあ。なんかなにもかもがくすんじゃうよね。
で、なんだっけ。そう、事務的なメールが本当に苦手で、やばいっていうだけの言い訳にこんなに文字数つかうような大人なんだよ私は。昔から書きたくないものに対する気の入らなさがほんとうにひどく、読書感想文とかね、決められた本に対して書くときとかの心ここに在らず感溢れる作文とか笑える。今はそういう課題を与えられることもないし、メール連絡ぐらいしか、こう、書きたいのではない言葉、というものを書くことはなくなったけど、そのぶんちゃんとした作法も重要視される年齢になったので、違う意味で難易度上がってる。愛想っていうものの価値が未だによくわかってないのだよなあ。はなから仕事のメールとか、用件伝えるための道具としか思っていない節があり。しかたがないのですよね。羅列じゃ!メールなど用件の羅列じゃ!ぎえー!
   
正直に言うと私は、コミュニケーションにおいて、フレンドリーさというものは必要ないんじゃないかと思っていて、たとえ友人であろうと、家族であろうと機嫌が悪い時は悪いし、愛想とかなんですかそれっていう態度でいるのです。そりゃあ、仕事での打ち合わせとかは議題を進めるために、「話しやすさ」は作るよう努めます。だってまず会っている・ご足労いただいているのは目的があるためだし、そのためにはがんばりますよ。仕事だし。でも必要以上に好かれようとはしないというか、いい人に見せかける努力というのを必要だと思ったことはなく(たぶん私の周囲の人たちがいい人すぎた)、そのために、会話を関係性を育てるためのものではなく、目的を達成するためのもの、としか見てないんですよね。友達ともあんまり無駄話しないし。用件もないのにメールするような友達いないし。で、今、そういうのってコミュニケーションの範疇なんだ!って知ってびびって、用件を伝えるためのメールに用件以外の要素が必要なのか…変じゃない…?ってなっているわけです。好かれるためにコミュニケーションするっておかしくない?本末転倒じゃない?みたいな、そう、中学生的発想なのです!いまさら矯正など不可能なのです!友達は少ないです!別にそれで困ってません!メールの最後に「※怒ってません。」とか書くようなそんな人間になってしまうのだろうかそのうち…。