可能性の羅列、つまり辞書。

辞書の薄い紙をめくることがなくなった。このことはなんだかおそろしいよね。だいたいで開いてめくっていくあいだに言葉にいくつも出会っていくような、そういうふしぎな読書体験をすることがなくなってしまった。知らない言葉はいくつもあるのだということや、自分の知っている言葉があまりにも細い、危うい糸でしかないことを、思い出すためのあの薄い紙。めくることなくなってしまったなあ。検索してしまえば早いものなあ。
   
使われている言葉と、使われるために並んで出番を待っている言葉というのはやはり全然顔色みたいなものが違って、小説で知らない言葉に出会って、「たぶんこう言う意味だな」と思いながら想像する「意味」と、辞書で見つけて説明を読み知る「意味」はまったく違う。そもそも言葉というのは、「使われて」伝えられてきた言葉であり、「なんとかかんとかを持ってきてよ」「なんとかかんとかってなんですか」「あれだよ、あれ」というふうにある意味「現場」で共有されてきたはずなので、やはり使用されている状態で新しい言葉に出会うと、新鮮さがちょっと違う。辞書で見る言葉というのは、まあ、出会ったようで出会ってないかんじというか。結局は「予告」でしかないというか。自分がその言葉を使う遠い未来への小さな予告。例えれば、血を入れる前の生き物みたいで、それを知っておくとその先、ある瞬間になんらかのきっかけで血の入った注射器を手に入れた私が、やっとその空っぽの言葉に血を入れて生かすことができる、使うことができる、というような、そんなかんじでしょうか。(だいたいでしゃべっているのでよろしくお願いいたします)辞書で言葉が並んでいるのは、知識とかではなく可能性の羅列というかんじなのかなあ。だから薄っぺらいのかもね。紙がね。(何度も言うようですがだいたいでしゃべっています)