作家は微分する。たぶん。

私は言葉が書けなくなる日が来るとは一切思ってなくて、不安でもなくて、書くことが嫌いになる日も来るとは思ってなくて、書けてたら友達いないのも休日ないのも寝ないのも食べ物がおいしくないのも平気というかとにかく、書く以外の作業が極めて嫌いで、まあこれは一つの病気だと思っているんですが(だって同じことを絵とか音楽とか料理とかで言っている人がいたら私は心配する)、そういうわけでこういう仕事ができているのはありがたいし、まじで仕事くれる人は神です。ありがとうございます。お中元とか送りませんけど感謝はしています。仕事ください。
   
まじで今、変な仕事をしていて。本当に変な仕事で、私と打ち合わせする予定の人は「何の仕事ですか」「うちの仕事ですか」って聞いてくれたらいいんですけど(たぶん違います)、でもこれはある意味本当の意味で「作家」の仕事だと思っていて、それでこれができたらたぶん私は「作家です」って自分のことを言える(言えるからといって言うとは限らないが)、なんでもかんでもポエジー野郎ではなくなる、とはおもっています。とか言うと、べつにだれもポエジー野郎とは思ってないと思うんですが、私は何書いても「詩的」と言われる気がする症状があって、それは私の文章が読みにくくて、なんていうかふわふわした部分を書いているからなんですが、私は結構「微分」している気持ちでいて。現実のいろんな世界を微分しているからふわふわ見えるのであって、ファンタジーのふわふわではないというか。そういうことを思っていて。なんでしょうね、詩的って、追加される要素だと思われがちなんですが(なんていうか「好き」って言うのを、綺麗に聞かせるためにめちゃくちゃ言葉に装飾つけて「きみの瞳はスピカのようだ」っていうようなそういうかんじ)、でも本当は、足されたのではなく、減らされた結果だと思っているんです。積分ではなく微分。なんでしょうね、だって、ある人の心情について「私は超つらい」「悩んでる」「恋してる」って書けばまあ、そりゃ、ダイレクトだし、わかりやすいけれど、でもそれはある人の心情そのものなのか? っていうとそうじゃないんですよね。足してもひいてもいないようにみえて、もうすでにたくさんの「先入観」「一般論」が足されてできた記述なんですよね。詩的といわれる表現は、それを全部ひきはがして、形がいびつになろうが、おりゃあ!って根元を引きずり出すものだと(私は)思っています。それでいて、いやだからこそ、共鳴を呼ぶような。(ポイントは共鳴であって共感ではないということ。)それは詩だけじゃなくて、作家というものは、結局現実を微分していくことだとも思っています。基本フィクションって微分と積分の出し入れで、この微分と積分って、おしゃれでいう引き算と足し算みたいなもので、まあ、積分もオリジナリティーのために大事なんですけど、肝は微分なんだと思っています。登場人物は自分じゃないし非現実なんだけど、でもなんか共感したり、わからなくても「あ、なんかぐっとくる」とかそういう共鳴は微分がされているからだと思うんですね。えーっと、大丈夫かな伝わってるかな。で、積分が無力化され、微分がちゃんとできないと絶対に形にできないっていう仕事を今やっているんです。もう、微分する前の数式がめちゃくちゃちゃんと存在している仕事(知名度のあるドキュメンタリーが元になっている仕事だとでも思ってくれれば話が早い)なので、まずはちゃんと微分しなくちゃいけなくて(元があるから積分は最低限で、微分だけでほぼすべてを完成させねばならない)それがもう、なんでしょうね、作家という職業の肝だな、これ、って思っていて、あー、これはいい仕事になるぞ、って気分です。結果がいいものになるかはこれから次第なので知りませんが、とりあえず私にとってはいい仕事になると思います。成長してきます。