やる気すらも敵

毎日毎日おなじものを食べていたら顔がその食べ物になるぞ、って言われたことありませんか。私ちいさいころこの決まり文句で教育されていて、たとえばアイスクリームばっかり食べたらアイスクリームみたいな顔になるぞって(溶けるの?)言われていて、最近ほんとうに「おりゃああー!!!」ってナポリタン作って食べることが繰り返しあって、顔がナポリタンになるかもしれない…とよく思います。最近しめきりがほぼドミノ倒しでがががががとくるので、その疲れがきて単純な味を欲しているのかもしれない。ケチャップ最高伝説。
   
昔から、「そこまで集中しすぎない」で書くといい感じに書けるという私流のジンクスがあります。というよりのめり込みすぎないでいると、本当の意味で「集中」をいつのまにかしてしまえるというか、「書くぞ書くぞ俺は書くぞ書くぞ書くぞ書くぞ」というテンションでwordを開いてもなんか全然進まないのに、「眠い…」というテンションで半目で書き始めるとサクサクと進んで、いつのまにか「あ、あれ? こんな時間?」みたいなことになっていることとか。なんというかやる気と集中は相反しないのだろうか。そもそも「やったるで」という感情は、集中の前では雑念なのかもしれない。下心なのかもしれない。きっかけになるようにみえてただただ邪魔なのかもしれないなあ。小説とかで最後の方になると沼というか、「ああ、もうやってられない、書くのあきてきた、はやく完結させたい…」とかいうテンションになってくるのですが、そうなるとスパッとボールが収まる感じがします。ミットに。なんのミットだ、というかんじですが、こう、実際に「あそこのあの言葉がよかったです」という感想をいただくのは、だいたい「ああーもうやだやだ、終わり、終わりだあと3枚で終わらせる」みたいなテンションの時に書いたものです。もし現代国語で「この文における筆者の心情を答えよ」ってあったら「ああもう早く終わらせたい」です。決して「名文かいてやるぜ!」みたいなときではないということ。でも、冷静に考えればそりゃあそうか…という気もしてきます。書きたくないぐらいの方が、言葉は直下でやってくるので、スピードが増す。(気がする)
  
このまえ、私の書く言葉は少女漫画によくあるあの、四角い箱に入った「モノローグ」的なのではないか、ということを思って、心の声よりすこし明確だけど、声にはなってないというあの、独特な少女漫画的話法。(ときどき(男の人が多い)少女漫画の箱やら吹き出しやらの混在した言葉たちをどういう順番で読んでいけばいいかわからないって聞くんですが、すごい不思議です。最初に少女漫画にふれたときに「読みづらい」とすら思わなかったので、たぶんなんらかのなんらかが関与しているのだろうなあ。)ああいうのにふつうに触れてきたから、モノローグ的口語体は結構自然なものだと思っています。ツイッターとかの「独り言」感も少女漫画に近いのかなあ。どうだろう。でもあれは使う人によるってかんじもしますね。あとインスタグラムでやってる詩を印刷したポストイットを現実に貼って写真にするのも、このモノローグの箱を貼ってると考えるとすごい理解がしやすくて、後付けではありますが「おおっ」と思いました。(というただの感想で終わらす)