とりあえず仲良くしとこう系の友達

堀北まきさんを見るたびに、野ブタのころの堀北さんにそっくりで、性格ぽわわってしてるけど芯が強く泣いたところを見たことがなくて、スタイル抜群で器用でなんでもできてスプラッタ系が異常に好きで今ではバリバリの心臓外科医になっている友人を思い出します。冷静に考えると、あんまりの特盛りっぷりに本当に実在してるのか?!という気持ちにしかならないですが…。でも本当に野ブタ観た時は「あれ?デビューしたの?」って思ったですよ。年も近いし。度胸あるし。名前見て、「あ、違うんだ…」ってやっと気づいたぐらいに似ていたのです。めちゃくちゃかわいくて、さっぱりした性格で、最高だったなあ。欠点というものがなかった。そしてそんな子にもコンプレックスがあったので、女の子は大変だな、と心底思っていました。美しさを追求するときりないってかんじなのかな。でも美人だという自覚もなかったっぽいし、外見に対して劣等感すらあったっぽいのでやっぱり存在自体が幻か何かだと思った方が合点がいく。
   
小さい頃の友人関係というのは謎で、結構なかよくなるきっかけってなあなあじゃないですか。入学式で隣だったとか、席替えで偶然隣になったとか、そういうのじゃないですか。選び抜いたわけではないんですよね。じつは同学年でめちゃくちゃ気が合う子がいたって、意外とそれに気づかないというか、同窓会とかではじめて「うわこの子超気が合う!」ってなったりとか。そういうのって最高だな、と思うのです。気が合わないし、そもそも趣味も合わないけどなんとなく仲良くなったきっかけがあってそれが継続されていて、でも友達だし愛着があるし、なんとなくその関係を維持するためにほどよい距離感を見つけ出そうとしたり、共通の趣味を一緒に作ってみたりとか(CDの貸し借りとかでね)、逆に共通のなんかなんていらんわ、って開き直って、流行りの映画とかショッピングとかそういうだれとでもだいたい楽しいイベントで一緒の時間に楽しむようにしたりとか、そういうふうに続けていこうとするのって、なんていうか大人になるとやらなくなりますよね…。大学では学部とかいうもので興味とか将来の夢によって分類されちゃうし、社会に出ると所属する組織とか、活動範囲とかでどうしても出会う人は偏るし。そのほうが、浅い関係性をこなす上では楽なんですけど(共通の話題があるため)、でも、私は昔のあの、「あ、入学式で不安だし、隣の席の人ととりあえず仲良くしとこう…」というノリから始まった友人関係が結構好きです。もはや「なんでこいつと友達なんだっけ?」っていう関係性がそれでも成立しているのって、もう、なにかを共有しているとかそういうことじゃないんですよね。「友達だから友達」みたいな根拠しかないんですよね。でも、そもそも友達なんていうのはすごく曖昧な関係で、もちろん共有するものがあれば会話とか関係の継続はとても楽なのですが、ただ楽しく時間を共有できるなら、趣味とかそういうのは違っていても何の問題もないはずで、そしてそういう「今、一緒にいる人ととにかく楽しく過ごそ」みたいな感覚って、人間の本質に近い気がするんですよね。砂場の子供達みたいなもの。気が合うかどうかとか選ぶ余裕がないほど群れが少なくて、でもまあそういうのにこだわることもないかんじ。むしろ偶然そこに居合わせた人たちと「時間」を共有できることに対して、ただただ喜びを感じるというこのかんじ。それはとても原始的というか、人がまだ少人数で群れていた縄文時代とかの匂いを感じるし、極端なことを言えば生命の本質な気がします。