意味とか理屈がダサいと思うお年頃

ペンネームがどのようにできたのかについてはいろんなところで聞かれていて、タヒは「死をくずしたもの」「タヒチからきたもの」「夕日と読める」などなどをよく聞かれるのですが、しかしどれも違っています…、特にここ数年は「死をくずしたものでは」と言われることが増えてきました。時代性かな。こわいね。ただ、そもそも漢字をくずして書く「ネ申」といった表記の文化は名前を作った当時ネットにはなく、「死をくずしたらタヒ」という発想はまだどこにも存在していませんでした。検索してもなかったYO。もし、これは私が最初に思いついた!とかならわたしの性格からすると大はしゃぎで今頃自慢していると思いますが、実際にはただの偶然でしかなく、デビュー当時から語感がいいから「たひ」と名付けたという話は取材などでし続けていたため(このブログにも昔な記事で書いてたような…)、正直に気づいてなかったと言うしかない。まぬけな現実をお伝えするしかない。くやしい!で、死と言われだす前はといえば「タヒチ」「夕日」のこの二つが本当によく言われていたのでした。ただ、これもちがって、言葉の音感というものが当時マイブームだったわたしは、「たひ」っていう音が面白いと気づき名前にしたのでした(思いついた時の話は、ネットの深海のどこかにログが残っているかもしれない…)。名前を作った頃は「タヒ」と検索してもモンゴルの馬しか出てこなかったので、むしろそれぐらい無意味な言葉だからこそ名前にした私としては、こうしたいろんな由来があとあと飛び出してくるのは予想外で、あと、時代が変わるごとに、読み手が想像する「意味」が変容するのはおもしろい。現代の闇である。
  
昔から他人のペンネームなども含めて名前を作るのが好きだった私は、なんとなく名前に想いを込めたらダメだと思っていて、それは想いとか理由があるとそのぶん名前にあきやすくなるというか、自分の中での風化が早いから。あと、ひとと被りやすいと、ネットで活動するには検索とかで不利だから。で、無意味極めたつもりが、このミスリード帝国なので、まぬけにもほどがあるのですが、結果的には大量に誤読されたり(サイハテはよくサイカとかモカに誤読される。タヒも夕日に間違われる)、由来をミスリードされたり、よくある名前よりも目を引くようになり、それはそれでおいしいな、と思っています。詩もそもそも、正しい解釈というものが存在せず、読者がミスリードを楽しむものではあります(わたしにとっては)。最初、私はへんに理由が見え透いた名前は単純でつまんないから避けようとし(意味とか理屈がかっこ悪いと思うお年頃だった)、無意味な語感と漢字変換のおもしろさだけで名前を決めたのですが、結果的にこんなことになりました。でも痛くてもミスリード満載になったのはある意味とても詩っぽいというか、ラッキーだったのかな、と思います。あと、意味なんてものにはやはり気持ち悪さが今でもあって、ものを書いていると特に思うのですが、人間の精神はそこまではっきりしたものではなく、根拠や意味が常にあるものでもないと思います。で、だからこそそうした意味や根拠を先に用意して、そこに肉付けをする形で作品や名前を作ることに違和感がありますし、そんなの二度手間じゃないか?とも思っていますが、そこから勝手に外れていく我が名前…。でも意味を知りたいっていう社会における心理もすごくよくわかるし、よくわからんのって不安だよねとも思うので(作品鑑賞とかも結局この不安が動機になってる気もする)、これはこれで自然の流れとも思っています。それに、わたしの名前はたった一つ、ではなく、いろんな推測を生んでいるのでただの無意味さよりもおもしろくなっている、気がする。つまり結果オーライ。むしろラッキー。でも、ここまで長く使う名前になるとは思わなかった!