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わからないとわかるの境界線は素敵なグレイ

わかりたい人とわかりたくない人。どちらもいるなあ、とか思う。自分が誰にも理解されないこと、人の言っていることがどうしてもわからない、なんでそういうふうに考えるのか自分だけが理解できない、みたいなことを思っている人は、「わかる言葉」を必要としているし、わかりあうということに追い回されて暮らす人は「わからない言葉」を必要としている。それは全然異なることのようにも思えるけれど、一つの言葉が、ある人には必要な「わかる言葉」で、また別の人には必要な「わからない言葉」であることもある。なんてことを思ったりする。「最果さんの詩はわかるから好きです」って言われても「わからないから好き」と言われても、私はそのどちらもきっと嬉しいし、たぶんどちらも同じことなんだろうとも思う。人はそれぞれいる場所が違って(物理的座標だけでなく精神的座標的なもの)、その地点によって見える景色がかなり変わる。わからないように見える人もいれば、わかるように見える人もいて、それが嬉しい人もいれば煩わしい人もいる。私はテレビを見ていてわからないと思うことはあまりないというか(わかるけれど……、と思うことはある)、学校生活でも人付き合いでそんな苦労をしていなかったので、十代の頃はあまり「わからない」と悩んだことがなくて、でも、それは「わからない」ということをわからないで生きていくということなので、たぶん50%はなにも知らないでいた。世界について。どっちもきっと同じことだ。今はわからないことがかなり増えたけれど、それだって「わかる」ことを失ってしまったので結局同じだし、そもそもわかろうがわからなかろうが、富士山を南から見るか北から見るかぐらいのことでしかない。(というときっと山梨と静岡の人に怒られる)
でもそれはきっととても大事なことだ。何かを作るというのは「わからない」ものを「わかる」ようにすることでもあって、「わかる」ものを「わからない」ようにすることでもあるのかもしれないし。そうじゃないかもしれないし。知らない。あ、これ考えても意味ないやつだと今思った。