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グッバイ小籠包

OK、もう小籠包に期待するのはやめよう。ぼくはある時そう決めたから、中華料理店で絶対絶対にと小籠包を頼むことはやめた。あんなにおいしそうなもの、そう、おいし「そう」なもの! きっとそう、メイビーそう、ありえないレベルで、巨人も進撃できないレベルで、そびえたった期待という壁! 頼めば頼むほどなんだかみんなが幸せになれない。「あ、こういう味だったな…うん、普通に美味しい」という感想しかでなくなる。おいしいのに、感動が異常に薄くなる。ほら、たとえばハンバーグを割ると肉汁がでてきてよだれが大分泌パーティみたいなことがある。で、まあ、それはなんとなく「予想がつく味」であって、肉汁だからって騙されないぞと、もう汚れきったハートで思う。肉汁がでるとイメージできるからといってハンバーグになにか奇跡的な味を期待するわけじゃない。だってもう何百個も食べてきたし。ハンバーグがハンバーグの味だからってがっかりなんてしない!でも小籠包はまだだめだ。スープがあふれでてくるというそんなすてきなジューシーなイメージ。ぼくらの並々ならぬ想像力! そして結構曖昧な小籠包における「実際の味」イメージ! それらが掛け合わさった時、ぼくらの期待したイメージをあの薄皮に閉じ込められた味は越えることができるんだろうか? 越えられなかった。ほとんどが、点心が美味しいお店でも、小籠包は小籠包の味だった。おいしいおいしい小籠包の味だった。でもそれは、ぼくらが想像している味だった! 知ってる味だった! 「あ、想像通り」というそんなリアクションしかなかった! 人は期待をしているとき、それを良い意味で裏切られることすら期待している。イメージを超えなきゃだれも、嬉しい気持ちになんてなれないのだ。おいしいものなのに驚きがない。ぼくらは期待しすぎだ。ぼくらは期待できすぎだ!(その想像力を別で使いたいよ!) 小籠包はいつだってきちんと平均以上においしいのに、ぼくらはなんだか魔法がとじこめられていると思っていないか。肉汁というものにファンタジーを感じていないか。小籠包だって肉と小麦粉でできていて(あとこまかい野菜)、それ以上のものは生まれねえよ!と言っている。ぼくらのほうが絶対悪いし、小籠包にごめんなさいをしなくちゃいけない。だから、OK、もう小籠包に期待するのはやめよう。
   
おいしい中華屋にいくと、とにかく小籠包を食べたいということになり、それはまあ、人間の本能に近い。とりあえずビールともうだいたい同じ地位に立っている。とりあえず小籠包。お店だってまんざらではないからメニューにおいても占める面積が大きい。でもなんていうか、小籠包専門店とかならともかく、小籠包に幅はそんなにないというか、たいてい「イメージ通り」の味で、もはや「肉汁がでてくる」ということがメインイベントにすらなっている。味じゃないのか! レストランなのに! 結局しゅうまいのほうがおいしい!なんて思うことが多いんだけれどそれは私だけなのかな。しゅうまいは具やらなんやらが結構自由でOKというか、小籠包よりも「わかりきっている」ものなので、お店が自由に遊んでいるものが多い。(たぶん小籠包は、そこまで認知が広がってないからこそ、自由な味付けがそんなにされていないんだろう)予想の範囲を飛び出すしゅうまいと、あくまで小籠包である小籠包。もはや味の感想も「小籠包だね」とかになっている。それは味の感想なのか。認識でしかないのではないか。ぼくら、肉汁が飛び出すというそのワンダーを一旦忘れたほうがいいのかもしれない。そろそろハンバーグぐらいの冷静さで見つめたほうがいい。
   
(以上、5年前からずっと書きたかったことを書きました。)