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才能だって努力だって、憧れだって、最高じゃん。

最強が好きだった。子供の頃はじめて好きになった有名人は、将棋の羽生さんだった。どんなにかっこいいアイドルよりも、どんなに歌が上手い人よりも、羽生さんが最高だった。羽生さんのマスコットがついているペンを心底大事にしていたし、というか私があそこまで人を崇拝的に好きになったのはこれまでの人生で羽生さん以外いなかったようにも思う。で、私は将棋自体はそこまで好きではなかったのだけど。
天才とか最強とか、文句無しに強いというか、そういう人はやっぱりかっこいい。これはもう仕方ないし、キャラクターとかでもやっぱりそういうのが好きだ。で、たぶん、その人自身はそこまでその「最強」を楽しんでないんだろうな、というのがもっと好きだ。結局はどこまでもこの器は無限であって、自分がどれほどそこに水を注いでも、満ち足りやしないのだということを誰よりも知っていて、つまり誰よりも「自分を平凡だ」と思っている。のかもしれない。それは謙虚とかそういうものではなく、絶望の話だ。(で、これは別に羽生さんの話ではない)天才とは努力する天才だとか言うけれど、それはべつに誰よりも「努力しなければならない」と痛感せざるを得ない場所にいるからじゃないかなあ。まだ足りないって、多分誰よりも思うんだろう。そういう渇望を知っている人というのは、人間としてやはりどこまでも「生」をかんじる。

でも、案外現実においては、そういう最強だとかいう人物はなかなかいないんですよね。勉学とかは順位が出るには出るけれど、でも結局あれは「強さ」の勝負ではない。範囲があって、基準があって、そういうところで測られる強さにあんまり意味はないと思う。私は勉強が好きだったし楽しかったからそれなりに好きな科目はやってきたけれど、でもなんていうかまあ、勉強というのはあくまで「これまでの自分」との比較によって意味が現れる行為で、他人と競おうがあまり意味はないしカタルシスもない。なんていうか興味関心の発散行為でしかないというか。あと、それが学問・研究となってくると、もはや争うというより開墾になってくるので、最強とかなくなる。頭の良さとかいうものは競えるものではないな、と小さな頃になんとなく思って。で、スポーツとか、頭のスポーツである将棋とか、そういうものはやっぱりいろんな意味で殴り合って向かっていける「最強」の椅子があるから、非現実的でいいなと思ったわけです(芸術とかはそのへん曖昧だしね)。そしてそのころ羽生さんがちょっとブームだったわけです。憧れちゃったよね。スポーツも、頭のスポーツも、別にそのものはそこまで好きじゃないけれど、そういうフィクションみたいな人のあり方を許しているからおもしろいな、とは思った。なんというかランク付けとか、才能とか、絶望的な感じもするけれど、でも結局それに苦しめられない人はいないと思うし、才能があろうがなかろうが、しんどいところが絶対あるのだから、いろんな人の特徴が強調され、浮き彫りになる「試合」という形はおもしろいな、と。
   
たとえば、スラムダンクのメガネくんとかのシーン(簡単に言うと努力をコツコツやってきた人物が、報われるシーン)は私にとってスラムダンクで一番の名シーンで、そりゃもう初めて読んだときは「うおおおお!」って泣きながら読んだけれど、あれも、結局は天才だとか最強だとか、そういうものが存在するからこその感動なんだよね。そういうどうしようもなく強い人間に憧れることもあるし、憧れたからこそスタートしたのかもしれないし、でも、それにはなれないとどこかでわかっていて、そうして思い知っていって、それでも、それでもさあ、そこに近づこうとするってもう、その力はそれだけで美しい。美しさに憧れるからこそ、その憧れも美しくなっていくんだと思うし、私はだから才能だって最強だって、そして努力だって、憧れだって、全部最高じゃんと思う。全部あるからおもしろいんだよね。天才はどこまでも天才に、憧れはどこまでも憧れに向かって。生きるってそんなかんじのことだよね。