いつだって人は、17を永遠にしたい(らしい)。

大人だと思っていたのに私の精神年齢は17歳らしい。17歳の話が好きなのはそのせいなんだろうか。どうせなら14歳がよかったなあ。でも、おかしいな、17歳の頃「17歳とは思えない文章」とかブログで言われていたのに。(だけれど結局、大人はある程度幼い人たちのことを、実際よりも幼く見積もるところがあるので、そのせいかもしれない)
部屋にあるのがテレビなのか、マツコさんなのか、わからなくなるレベルで毎日マツコさん観てる気がする。こたつを出して、あつっ、って言ってるから今は秋。10月っていっつも、きてみると案外秋にみえない。葉っぱはまだ緑だし。やきいもやさんはやってこないよ。食欲にうったえかけるなにかがない!本当にやらなきゃいけないことが積み重なってきて、いつだって憂鬱だし、だいたい明日の存在をばかみたいに信じきっているからこういうふうにタスクを積み重ねるんだと、なぞの現代社会に対する怒りがわく。こういうところで何の意味もない話を書き綴っているときほど、私はすらすらと文章を書くし、文章はすらすらと書けていないと楽しくないと思ってしまうのは、きっと話すスピードの言語が一番好きだからだ。どうだっていいことだけれど、自分ひとりで思考しすぎる女の人はみんな同じような早口だよね、あれなんなんだろうね。ラジオとかでいつもきにするのは、とにかくゆっくり喋ろう、ということで、しかたがないからなぞの京都弁と神戸弁のミックスジュースを無理やり混ぜて、似非はんなりを出そうと努力しています。(きっと効果は出ていない)
   
↓ 少しだけ漫画「ちはやふる」新刊のネタバレしているかもしれないので気をつけて下さい。
   
ちはやふるの新刊(29巻)をよんで、しのぶちゃんの今回のエピソードがあまりに素晴らしくって。私にとって「ちはやふる」はもはやしのぶちゃんの物語となった。前から彼女が一番好きではあったんだけれど、もはや物語においても最重要になってしまった。好きなもので生きていきたいという気持ちと、好きなもので生きていけないという苦しみの中で、引き裂かれるのに才能の有無など関係なく、ただ自らの才能を信じて、そしてだからこそその世界だけを信じて生きてきた人ほど、痛く痛く、しみるのだろう。土壌があるというのは幸福なことだと思う。「本」というものが流通に乗り、それを売る専門店がたくさん街にあって、そしてそれを手に取ることが当たり前の文化としてある、ということは、とても幸福なことだ。本当に、単純に。と、いうことをうっかり忘れてしまいそうにはなるけれど。本が売れなくなった、ということも言われてはいるけれど。でも、やっぱり言語はどこまでも身近だから、こういう点ではとても、恵まれていると思う。書きたいと思っている間、どこかでなにかを読みたい、と思っている人がいるっていうのは(私の読者では決してないにしても)、他のさまざまなカルチャーに比べればとても恵まれている。しのぶちゃんのように生きることも、千早のように教師を夢見ることも、どちらも眩しいけれど、しのぶちゃんの選ぶ(っぽい)道はあまりにも険しいから、見ていたいと強く思う。