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共有するための言葉。

本の知名度が以前よりは上がって、多分ちょっとだけ人の目に触れることが多くなったのだけれど、それまでは、本当にそれまではまったく、私は「サブカル」って言われたことがなかった。たとえ同じ本であっても、『空が分裂する』なんて単行本の時はサブカルとは言われなかった。私はその言葉に何とも思わないのだけれど、でも、今言われるようになったということだけは、へえ、おもしろいな、と思う。他人にある一定のタグ付けをおこなわれるということは、つまり目に入っているということ、分類分けをする対象だと思われていることで、最近までそれはなかったことを知っているから、内容よりその事象が面白い。大森靖子さんの歌に「サブカルにすらなれない歌があるんだよ」という歌詞があるけれど、その通りだった。私はつい最近までサブカルにもなれていなかった。
   
もともと自分につく形容詞にぴんときたことがなくて、急に「セカイ系」っていわれるようになったり「エモい」っていわれるようになったりして、そのたびに「こういう言葉が今流行っているんだな」としか思わなかった。私に紐づくというよりは、たぶん「現在」と紐付いているのだ。つまりそれを言われるかどうかっていうのは、私が「今」であるかどうかというそれだけの指標でしかない気もしていて(その指標自体あんまり意味はないんだけれど)、言われた時はとにかく「あ、とりあえず、私は"今"と共鳴する振動数なんだな」という認識になる。もちろん、簡単にそれで片付けられることにもやもやするという人もいて、サブカルとかいわれるのつらい、って言っているひともみたことあるけど、私は結構どうでもいい。簡略化されることの恐ろしさはよく知っているけれど、こうした出来事は"今"と向き合おうとするならどうしようもなくて、大多数の人は語る言葉をさぐるより、誰とでも共有できる言葉を選んでしまう。あたりまえだよ、共有したいんだから。そしてだからこそ私は言葉を書くことで、その共有するためのキーワードでしかない「言葉」をそれ以上の「言葉」にできたら、って思い続けていたんだし、つまり私は私の作品を出し続けるしかなかったんだ。確実にきみだけの言葉が、不器用でもきみだけに言える言葉がそこにあるとして、私が私の名前を覚えてとか、サブカルとか呼ばないで、とか言うより、たぶんそれが根本的な話だ。感情はそれぞれ違うのに、言葉にすると単一的。「愛」とか「かなしい」とか「大嫌い」とか、そういうものでむりやり簡略化して、切り捨てたものがどちゃどちゃと体よりアスファルトより下に落ちて積もって行っている。そしてそれ、病気じゃなくて自然なんだよ。(でも私は詩を書くよ。)そろそろ詩集、また出します。(来年になるかな?)