読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

日常大嫌い

くだらない話だ、今日私が何を食べたかなんて、何を着たかなんて、話したいとも思わない。どこかで私は空洞で、ただ言葉を書くために叩いて響かせるパイプみたいなものだと思っているのかもしれなかった。日常をインターネットに書くということが嫌いで、迂回するようにブログを更新していたら詩みたいな文章になっていていつのまにやらそれが仕事になっていた。私が今中学生だったなら、もっと日常の一部分を切り取ってSNSにたれながしていたかもしれないけれど、私が中学生だった頃インターネットはまだ「誰でも発信者時代」ではなかった。発信する意義があることを発信する人しかいない世界で、私もサイトを作って、ブログみたいなものをつけていたからどうしても、他人の目を気にして話題を選択する。くだらないこと書きたくないな、そんな気持ちが働いて、どうだっていいことだけれどそれでもそれが大切だから誰かと共有していたい、みたいな感情が欠如していった。
   
人間が人間であることになにか意味があるのか。人間が生きていることになんの情報価値があるのか。みんな食べていて、みんな寝ていて、みんな服を着ていて、そんなの知っているし、わかっているし、だからなんなんだよって、言い捨てられるから、だからこそみんなただただ空っぽに日常を繰り返したって平気でいられるんじゃないのだろうか。それらに意味があって、それらが一番最高なら気軽に食べるものも決められない。私は人間であることと、言葉を書くこと、そのどちらかを優先するなら後者を選びたかった。後者だけに光を当てたい。別に、他人が日常を共有してくることに対してはなんとも思わなかった、うまく相槌が打てなくて、怒られることはあったけれど、別につまんないなとは思わなかった。でも私には他人みたいな大した日常なんてなく、不幸だと思ったことすらない。ただ繰り返している。生きて生きて生きて、食べて、書いて、眠って。そうしたものを共有したいとも思わず、日記帳が続かない。日常を愛さないのはきっと、人間としてマイナスだから、いつか限界が来て、書けなくなったら笑ってくださいね。ほほほ。でも一方できっとそういう日常の共有ができないからこそ、私は非日常の権化みたいに作品を書き続けてきたんだろう。10年間、文章ではずっと饒舌なのに、友達と会っても「話すことないな」って思うことが多発する。私は物を書いていなかったら、それを読んでくれる人がいなかったら、どうなっていたのだろう。人と話さないで過ごしてしまった時代がなんどもあって、ずっと「なぜ他人に私の日常を報告せにゃならんのだ?」と同級生にまで思っていた。いつだって「聞く価値のある日常話」を提供できない平凡でくだらない自分がいやだったしだからこそ別の形で、なにかを提供したかったのだ。発信すること、伝えること、その意味とか意義とか考えて、あー、そういうのがなくても会話が成立するのが友人というもの、とかいうつまんない定義づけに甘えるのもこりごりだった。おもしろがらせたい。黙っていたい。これだけ人間がいるのに、せっかく全員他人なのに、日常なんて見せたくない。日常だって当たり前のものじゃないけど、あるだけで幸福なんだけれど、それでもやっぱり他人にとって「日常」はくだらなくて伝えるほどのことでもないし、だからこそ私はからっぽで、そして言葉を書かせてくれていた。日常はほんとは幸福の結晶なんだけれど、そうだとしても、それを手のひらに乗せてまぶしいまぶしいと言っている場合じゃないんじゃなかったんだ。人はどこまでいっても単純に、面白い人が好きだ、めちゃくちゃな人が好きだ、天才としか思えない人が好きだ。見ててたのしいし、おもしろいし、日常なんてそれに比べたらやっぱりくだらないぜ。大切だけど、大切ではあるけれど、それでもそれはそっとしまって、他のものを見せていたい。食べたものなんて、教えたくないんですよ。究極つまんない日常を生きてフラストレーションで、原稿書いてたいんです。