最強ですので最強です

本のタイトルというのは、結局ゆめに名前をつけるということなので、大切にしたいし自分が好きな言葉をつけたい。小説はだいたい5日ぐらいで書くことが多いのですが、タイトルをそのあと1週間ぐらい考えることもあって、なんだかそれはそれでおもしろいのです。短い言葉、しかも本文が背景として待っていてくれる言葉を書くというのは楽しい。特に本文が長ければ長いほどその楽しさは増していきます。たぶん、距離ができるからでしょう。タイトルと本文に。近いとあまりタイトルがタイトルで存在する理由がないというか、タイトル読まなくても本文読めばOKぐらいの軽い存在になるので、私もぴって線引く感覚でつけてしまいますが、小説とか詩集のタイトルとかはなんだかなによりも重労働だなと思います。
    
macで最近最果タヒが一発変換できるようになったらしく、ユーザー辞書とかに登録せずにいつも、「最果て」ってうって「て」を消していた私は、いつもいつもそれをしたせいでパソコンが気を使い始めたのか、本当に全体的に登録されたのかもわからず、いろいろリセットしたりして、うわー本当に変換されるっぽいぞ!と盛り上がるまでに1時間かかりました。わかりません。もしかしたら私のidではそうなるってだけかもしれません。そうだとしたらかわいそうな人だなと思いながら優しく見守ってください。私は私を憐れまないので、いくらでも憐れんでいただいて良いのですよ。対岸の火事。(ほんとか)
人間が悩むことについては私はそもそも疑問であって、みんながあれにあれて、思春期を暴発させ、よくわからん怒りが体の真ん中を軸にぐるんぐるんと渦巻いているのを教室で眺めながら、いそがしいな、と思っていたタイプでしたので、感情というものについてはそこまで重要と思っていないというか、一度受験生の頃にクリスマスのイルミネーションの中を歩いていたら、なんか自分がかわいそうに思えてきて、クリスマス嫌いとか言い出しかねないかんじになり、何て簡単に自分を哀れむことができるんだろう! とびっくりしたことがあります。私はクリスマス好きですし、たぶんクラスでも12を争う好きさだったのにこんな簡単に、しょーもない、ただのタイミングで私ってかわいそうとかクリスマス嫌いとか、いろいろ否定しちゃうのって恐ろしい流れ、とか思ったのですよ。これ、詳しくは京都新聞11/30朝刊にエッセイで書いたんですけど、とにかく私は感情というのがつねに自分の芯であるとはかぎらないという結論に達して、寝たら忘れるようなセンチメンタルに私の思考を邪魔されてたまるか、とも思ったのでした。ということでクリスマスは好きです。たとえなんかいやなことがあろうが、イルミネーションは綺麗だし、子どもの頃わくわくしていました。それだけの事実。
   
思考回路ビビビ!