子供時代などエモーショナルの奴隷でしかない。

12月はマジで地獄のようなスケジュールであり、なにかが1日でも遅れるだけで全てが崩壊するのである。この前とりあえずその半分を消化したのだが、打ち合わせしたら新たなタスクが増え、結局量が元に戻ったのだが、これはなに? 永遠に終わらんの? しかしどこかで永遠に終わらないでくれとも思うのだ。書き続けるという行為は何にもかえ難い心地よさがあるし、それすべてに待ってくださっている編集さんがいるというのは幸福でしかないのではないか。ワーカホリック!でも書くの以外に趣味ないしなあ、ワーカホリックとか悲観したければどこまでも悲観できるが、だからってこれよりすばらしい環境があるわけもなく。ていうかこれ仕事だし。仕事という概念が日常に現れてから私はそもそもとても体が楽になったというか。学生の頃は本当に私はなんなのだ、世界に開いた穴みたいな気持ちでいたのだけれど(まあ実際、世界を視認する際、鏡など間接的道具を使わない限り自分のことは見えないのだから、自分は永遠に自分にとって「世界の穴」なのである。)、役割が生まれれば、別に相手と目的のない世間話をしなくとも、関係性が生まれ、会話が可能になるのだからそれだけでありがたい。昔は友達に「私の話に興味なさそう」とひたすら言われていて、しかし興味を礼儀として見せていくというそんなスタイル私知らない、って感じだったので、ぜんぜんそこが解決せず、愛想がないというか、それは別にいいけどコミュニケーションで使えるカードがないので不便、というかんじだった。しかし今は役割があるので。仕事があるので。コミュニケーションにおいてやっと私が使うカードが生まれたって感じ。書きました、こうしたらもっといいのでは、なるほどではもっとここもこうしては、いいですね、みたいな、話とか、できるようになって私がどれほど安堵したか!(まあびっくりマーク使うほどのもんではないけど。)そもそも人と会話する楽しさがよくわかんなかったのに、そこに必要性もみいだせなかったのに、そこがんばらないとだめだったころから一転して、会話に必要がうまれ、そしたらそれなりに楽しくなったのだから、大人なんてクソとか言ってないでさっさと大人になればいいのだと中学の頃の私に言いたい。子供時代は自由だという人もいるけど、子供時代などエモーショナルの奴隷でしかない。
   
ということで最近はご飯食べながらとかお茶飲みながらとかパソコンの電源切れた時とかにスマホにブログやら詩をがががっと書いて、更新をして、そしてまた原稿に戻る、というようなそういう感じで仕事をしています。そして年明けはとにかくいろんなことがラッシュである。本もでる。連載も始まる。小説も載る。がんばるんば!