本の90%はタイトルでできている。

なんていうのはジョークですが。
   
以前、この世で一番タイトルが重労働という話を、書いたことがあって、結局それは徹底的に「顔」であるので、正しかろうが、新しかろうが、眩しかろうが、過激であろうが、絶対に越えられないものがある。それを超えなくちゃいけないんだよな。タイトルがすばらしいひとが私は好きで、なんというか、思想と作風がどちらも同居して、タイトルを見ればこの作家が好きかどうかが判断できるようなそういう、芯のある鮮烈さ。タイトルのために作品があるとでも、思ってしまいたい。本を読む前は、勝手な想像で跳ねてみたい、本を読んだ後は、やっぱり勝手な想像でさらにさらに跳ねてみたい。納得なんてさせないで、遠のいていくほどの言葉、それでいて、その輪郭を、色彩を忘れさせない。永遠にピントなんて合わないはずなのに、これほど美しい景色は見たことがないと言わせてほしい。そういう、タイトルが好きです。美しい言葉でも足りない、というのがタイトルの良さだとおもう。答えが出るまで、答えなんてあるのだろうか、って思うのに、出た時にはそれしかないと思わせてくれる、そういうのが好きだ。
   
私は本をほとんど読まないのだけれど、本というあり方はとても好きで、昔から本屋さんを練り歩いたりしていた。読まないけど、読まないぶんタイトルはたくさん読んできたと思う。中身が待っている言葉ってめずらしいよね。詩も小説も読んでしまったら、あとは自分の中にしかない。タイトルには本文がひかえている。だから、言葉を読むという行為がちょっと特別になる瞬間。どんな話だろう、って想像させる。これがお話のタイトル? って驚かせる。言葉が言葉として存在を超えて、可能性であるとき。どきどきするね。私は好きな本リストなんて持ってないけど、好きなタイトルリストというのはあって、「読んだあとでタイトルを見るとワンダーが生じる」「えっ、どういう意味、どんなお話?とハラハラさせてくれる」「物語のワンシーンを印象的に切り取る系」「単純に書かれた情報・内容にワンダーもしくは過激さがある」とか分類して、時々眺める。たぶん私はタイトルを考える瞬間が一番楽しいのでしょう。詩のタイトルは、詩自体が短いから、あんまり存在意義ないし、そこを重く(感覚的表現)しても意味ないので、意図的に適当につけていますが、詩集やある程度の長さの小説のタイトルはぐらんぐらんと考えてしまう。
   
完璧なタイトルというのは、どういうものだろうか。読む前に「どんなお話?」とちょっとハラハラさせ、そしてその言葉自体の組み合わせの新しさにどきどきし、刺激された空想がひろがりながらも、読んでいる間はその空想以上の展開、意味合いが判明し、「あのタイトルはこういうことだったのか!」と脳に電撃走るようなひらめきをあたえ、それでいて読み終わって、本を閉じ、目に映った表紙のタイトルに、「もしかしたらこういうことだったのかもしれない…」と物語のさらに向こう側、そして自分の内側へと想像、感情を展開させるタイトル。タイトルに触れた瞬間、本を読む間、本を読み終わった時、この3回それぞれ、別の形で、タイトルに使われた言葉の意味、価値を更新してしまうような、そんな……。なんだか疲れちゃいそうですね。