ノー・コンティニュー・ダイアリー

1月始まりの日記帳を買って、そして1月のしょっぱなから書かなかった。日記が続いた試しがないというか、書こうと思って買うには買うけど、ちゃんと書いた記憶がなかった。今はもはや「本日書いた原稿」について5文字ぐらいでメモをとるだけでいい、とおもっているんだけど、それでもめんどくさくてやらない。私は他人に見せる予定のない言葉を書くのが、本当に本当に本当に本当に大嫌いなのだ。誰にも読まれない言葉って死体つくっているかんじでうげーってかんじがしちゃう。あ、自分がやる場合ですけど。
   
こういうの、昔からそうだった。インターネットが小学生の頃からあって、たぶん中学入って同時ぐらいに、不特定多数のひとが見る場所で書くということを覚えたんです。で、それまではまあそんなに書いたりしてなかったのに、見ている人がいると思うとどんどんかけたし、楽しかったので、私にとって書くとは誰かに見られる前提で書く、というのとイコールなんです。それ以外想像できない。最初からそう。一人でノートに書き留めていた言葉が、ふと世に出たのではなくて、最初から見られるつもりで書き続けてきた言葉。別に考えてそうしているわけではなく、私の「書く」という作業はそこに直結してしまっているのです。インタビューとかでよく、自分の感情を書くとかいうのがよくわからんとかいうと、それこそよくわからんというリアクションがやってくることがあるのですが、でも一人で自分の満足のために書くなんてやったことのなかった私には、「いやでも私の話なんて誰も聞きたくないし、それより読んでくれた人が「わあ!」って言ってくれる言葉書くほうが楽しいんだけども…?」というかんじなのです。作るという作業は誰でも最初は自分のために起こるはずだという価値観は、もはやこの時代においては古いのではと思うのですが、どうでしょうか。何でもシェアの今なんてさらにもっと、もっと個人的な作業というのが失われて行っている気がするけど、そこまでSNSが普及していなかったあのころですら、いくつかの「個人的な作業」は消えていったように思える。だってネットなら、誰でも最初から観客を想定できてしまう。
   
作文だとか、交換日記だとか、誰かが見てくれるとわかってくれないと言葉を書く気にならなかった。言葉というか、語感をならべていくことは非常におもしろかったのだけれど、それ以上に、言葉というのは物質でない分、直接読み手の心臓につながっている気がするんですよね。それを引っ張って、並べていくのが楽しかったんじゃないかなあ。料理とか作る時、一人で食べるんだとやる気しないじゃないですか? でも他人が食べてくれるのなら、あの子はあの味が好きで、この子はこの野菜が好きで、ってひっぱってくるじゃないですか。っていうか「おいしい!」って言われたいからがんばるじゃないですか? それと同じなのです。この子はこういう文章好きだろうなって思って書いて、それが友達に「うれしい!」って言ってもらえたりするの、それがうれしい。それだけがうれしい。私には言葉は全部、読み手にたいするスイッチに見える。それを押していく。ぎゅっと他人の心臓を掴んでいく感覚。これがいいかな?とか悩んで構成するというよりは、なんというかもうそこと私の感覚がつながってしまって、反射的に研いでいく感じです。自分の気持ちを書くとかのほうが私にとってはわざとらしく、遠回りで、どうもできそうにない。そういうの渋くてかっこいいな、と思うんだけどたぶん私には向いていないともわかっている。なにより読み手に向けて書くことそのものが私にとって「快」となってしまっている。
   
先日学生さんにインタビューしていただいて、第一詩集「グッドモーニング」から大きく変わりましたね、という話になったのですが、本質は変わってないんじゃないかな、と思いました。現代詩花椿賞の授賞式で、佐々木幹郎さんも「グッドモーニング」を読むと「死んでしまう系のぼくらに」に至った理由がよくわかる、とおっしゃってくださっていて、うん。やっぱり変わってはいない。根本は。ただ当時はもっとやみくもだったのです。他人の心臓を打ち抜く感覚で書くというのはずっとあって、十代の私はとくにその撃ちぬき方が攻撃的で、まあそれについてはグッドモーニングのあとがきにも書いたのですが、しかしかといって私が超鋭いナイフ見たいな女の子だったかというとそうでもなく。やっぱり、私の性格や感情がそこにあったかというとそうではなく。他人をゆさぶっていく言葉を突き詰めたら攻撃性に行き着いたということなのだと思います。つまりだから、当時から、他人しか見ていなかった。そしてそのころはあまり、読者像というのが今よりはっきりはしていなくて(数が少なかったというのもあるのかな?それこそツイッターとか普及もしてなかったし、人の感想を見る機会も少なかった)、だからやみくもだったという。そしてそれがあの複雑さというか歪さ(いい意味で、と私は思っています)になったのではないかなあと思っています。でも、読んでくれる人が増えて、霧が晴れていくようにまっすぐになったというのが今の感覚。だから、変化があったというよりは、クリアになったというかんじなのです。ただただ。(そしてどちらがいいとか悪いとかではないのです)
   
他人を意識するというのは別にいいことでもなく悪いことでもなくて、私は作り手としてはやっぱり一人で閉じこもって傑作を残していくような人に、何というかロマンチシズム感じるのですが(勝手な話ですよね)、でも私はこちらの性質のほうが合っており、こちらの性質だと気づけたからこそ今も書いていられるのだと思っています。えーっと何の話? そうつまり、これほどの文字数を使って日記が続かないのは仕方ないのだという言い訳をしたのです。あけおめ〜。