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優しさの天才ではないわたし

当事者ほど、その出来事は個人的なものになり、当事者から離れていくほどに、それらを俯瞰できるのかな。昔から何度かエッセイに書いたり、ここに書いたりもしているけれど、阪神淡路大震災は、被災者の私にとってはやっぱりどこまでも個人的な出来事だ。「日本は変わった」「ここがターニングポイントだった」という意見はよく聞くけれど、これほどピンとこない話もなくて、私にとっては他の思い出・記憶と同様にして非常に個人的な出来事で、そうした個人個人の悲しい出来事、こわい思いが密集したのが阪神淡路大震災だと思っている。他の人にもたとえば事故にあったこととか、家族が病気で倒れたこととか、家が土砂崩れにあったとか、いろんな個人的に大きな、とても大変だった出来事があるはずで、私の被災経験はそれと同列のものだと思う。だから、そんなどこまでも個人的な出来事が、こうして歴史的な出来事みたいに、国とか世界を主語にした言葉でひっくるめられると、なにもかもがばらばらと、その言葉の隙間からこぼれ落ちていくような感覚になるのです。たしかにそこで日本は変わったのかもしれないけれど、当事者である私には、たぶんそれは永遠に理解できないことだろうなあ。全体的に見れば、何千人が亡くなって、経済的な損失がいくらで、そこでおきた当時の報道とかのパニックとかがやっぱり頭に浮かんで、それはとても大事な情報だし、私も把握しようとしているんだけれど、でも理性的であるという自信がまったくない。避難先で行き交う担架のことや、同じ小学校で亡くなった子がいたということが思い出されて、亡くなった方の人数よりも先に、私の脳裏を支配する。経済的な損失なんてわからないし、震災の日に、スーパーがお店にある食べれる物をすべて開放してくれたこととか、そういうことしか思い出せない。割れてしまったガラス、ヒビの入った壁、燃えてしまう商店街。もちろん、報道なんて見られる環境になかったし、どんなふうに当時報道されたのか、当事者こそ知らないんだよな。それからしばらくろくに、情報を手に入れることができていなかった。オウム事件もたぶんリアルタイムでちゃんと把握してなかった。数ヶ月間、社会から急に切り離されて、漂流してしまったようなそんなかんじで、それなのにそのできごとが社会を大きく変えた、というのはやっぱりちょっと変な感じがする。が、でも、それはもちろん、私がおかしいわけでも社会がおかしいわけでもない。実際神戸の外側ではいろんなことがそのとき一変したのだろう。これはただ、それぞれがそれぞれの立場からしか物事を語れないという「事実」でしかないから、わかりあえないことはわかりあえない、っていうだけでいいと思っている。お互いが、当時はこうだったよね、って言って、なんか全然違うね、って言って、それでいいと思う。被災者だというとどうしても、気を使われるけど、だからって全人類にあの日を経験して欲しいなんて微塵も思わないし、わかんないんだからわかんないでいいじゃん。それより明日をいい日にしようぜ。それだけのことなんだとおもう。それだけの。
   
でもやっぱり、そういう、見えかたみたいなもの、それは本来衝突してしまうものなんだろうな。震災みたいな出来事ならば、全体で把握できる人も現れるし、だからこそ偏りはそこまでぶつかり合わないけれど、しかし社会の一般的な問題については、すべての人が当事者だから、俯瞰できる人もいない。それぞれがそれぞれの立場から、特定のアングルで見える世界について語るしかなくなってくる。そしてだからこそ「わかりあえない」ことへの苛立ちが、主張に充ち満ちてそして、あのピリピリ。苦手だ。人がたくさんいて、その人達はいろんな立場にいて、それぞれの立場から、主張せねばならんことを選びとって主張して、ぶつけ合って、とにかくとにかくわかってもらわねば生きづらい、となる間、やっぱり、わかりっこないことも多いし、そこをちゃんと慮るって意外とやさしさの才能がないとできないことだから、うまく受け取れないひともたくさんいて、そうすると殴り合いになってしまう。受け取れない人は、相手がわがままを言っているような気がするし、受け取ってもらえない人は、自分のことを必要以上に無視されたような気がしてしまうし。しかし人間は人間という社会の当事者だから、それぞれが局所的にしか世界を見ることができなくて、だからこそ、それぞれに主張し補い合うことはやっぱり必要なんだろう。そうやってなんとか全体図を把握しようとしている。でもそのときに漂う苛立ちみたいなものは、やっぱりどうしても苦手だな。十代の頃はとにかくそれでも、全体図を把握できない自分にむかついたし、なんとかそこを捉えたかった。そして、天然でそういうところをおだやかに、察することができる人というのに憧れた。でも、今ならわかるのだけれど、そういうひとはただの優しさの天才なんだよな。あれが正しい大人の姿だと思っていたけれど、ただの天才だったのだよな。かなしいことに人間は他者にされた優しさというものにはちゃんと気付けてしまうから、そして優しさなんていうのは誰だって無限で発揮できるものだとちょっと思いがちだから、天才的な優しさまでもすべて自分だって発揮できると信じてしまって、そして自滅することがある。途方もない優しさの天才を人間としての基準と信じて生きてしまうと、自己嫌悪と他者への軽蔑が止まらなくなり、結果的に誰よりも優しくなくなってしまう。この法則に誰か名前をつけようぜ。で、まあ、しかしそういう天才たちは想像以上に特に考えていないというか、まるで風を察知した繊細な綿毛みたいに他者の感情が乱れる直前、そっと気づいてそして助ける。たとえそれがどうして辛いのか、論理的には理解できなくても、察してしまう。もはや第六感とかそういうものじゃないかとすら思うの。マナーとも全く違っていて、本人も考えて動けるわけじゃない。で、だからこそたぶん、やろうと思ってできる類のものではないんだと思う。やさしさにも閾値があるんですよ。人間。運動神経とかと一緒ですよ。で、それでも優しくされた時の感動だけはみんなわかるから、だからこそ人は考えて考えて、知識と想像力を駆使しまくって、天然での優しさが発揮しきれないかわりに、なんとか気を使おうとするんだろう。自分とはちがう立場のひとにとって、必要なこと、主張すべきことを、なんとか把握しようとする、傷つけないように気を配る。自分からは見えない景色をかき集めて、他者の視点を手に入れようとする感じ。優しさよりなんだかそれってかわいいよなあと思うのだけど、どうでしょうか。きっとそれが知性ってやつなんだと思います。なんてことを言っている今日は2月の始まり。閏年。まめまきの準備をみんなしましょうエイエイオー。