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自分がかわいいのだということを人はちゃんと知るべきで。

私は小さい頃、非常にひとみしりで、知らない子供たちのところに放り込まれたりしたら泣き叫ぶようなそういう子供だったので、あっという間に仲良くなってきゃーきゃー遊んでいる、みたいなほほえましい絵を作ることがまったくできず、大人がそういう子供の無邪気さ、心の壁のなさみたいなのを期待しているのもはっきりとわかっていたんだけどそれでもできるわけがないし、怖いし、みんななかよしだね、って他の子達に大人がニコニコしているのを見て、うう……私はかわいい子供じゃない……と勝手に落ち込んでいたのを覚えている。しかし知らない人が怖いという私も当時別に、無邪気じゃないわけでなかったと思うんだよな。ただ都合のいい無邪気さではなかった。で、だから私は不器用そうにしている子供が無駄に好きだ。きみもかわいいんだよと言ってあげたいが、そんな大人は怖いだろうな。しかたがない。
   
自分がかわいいのだということを人はちゃんと知っておくべきで、写真とかをうまくとるひとは、たぶんその人にきみはかわいいんだよということをちゃんと伝えられる人なのだと思う。外見の美醜の話じゃないですよ。もっと存在への肯定です。人と話していると、このくせはこの人のらしさだなあ、とか、表情でも当人が気づいていない定番の笑い方とか、相槌の仕方とかあると思って、そういうの、そういうのが「かわいい」というふうに切りとれる人はすばらしい。私はまったくもって自分のことを「正しい」とか「優しい」とか言われたいとは思わないんだけれど、しかし存在としてそうした一瞬を伝えている写真だとかは見ていてまぶしくて、「かわいい」って言ってもらえている写真だなあ、いいなあ、とうらやましくなる。どうしようもないし、しかたがないし、それでもかわいいのだというそういうこと。そういうことは、理屈ではどうやっても説明できなくて、ただ「いい写真」や「いい言葉」や「いい絵」や、そういうものにアウトプットして、「ああ、いいね」って本人に共感してもらうことでしか伝えられないのだ。ときどき、似顔絵って性格が悪くないと書けない、とかっていうひとがいるらしいんだけど、しかし書いてもらった人が、恐縮するんじゃなくて、なんだか安心するような、ただ美化したんじゃなくてもっと、「あれ、これ私のおにいちゃんとおなじ表情だな、もしかして私もこういう顔するのかな」とか、そういう遡っていくような喜び。自分への肯定が、ぽんとその人の中に生まれるような。そんな似顔絵もあるはずなのだよね。そういうときたぶんその絵は「かわいい」と伝えることができている、どこまでも個人的でどこまでも局所的で、しかしそれは感動とか号泣とか全米が絶賛とか世界NO1とかなにもかも飛び越えて、その人にとって最重要なものになるのだ。人はたぶんちゃんと、自分がかわいいと知るべきだ。