世界は不親切な物語

物語というもので育っていないな、というかんじがあって、そのあたりで他人とはわかりあえないな、と思うことも多い。わたしはなぜか「理解しえないところで動いているらしき物語の断片」とかを見るのがちいさなころ、好きで、バラエティでスタッフとかタレントが笑っているけど子供心にはなにがおもしろいのかよくわからない当時の時事ネタとかそういうのをボーッと観るのが好きだった。自分の知らないところに文脈があるんだなーというのはそれだけで愉快だった。あと、小学生の時にエヴァをやってて、時間的に見れる時とみれない時があったせいで、それに思春期もなにもわからない年齢だったしで、意味不明だったんだけど意味不明だなーと思いながら見ているのが楽しかった。たぶん最終回見たんだけど、意味不明すぎて「最終回見逃したっぽいけど誰か見てる?」ってクラスできいたら誰も見てなかったというそんな思い出。その後10年ほどそれがエヴァだとは思わなかったんだけれど、いろんな記憶の断片を大人になってから拾い集めて、やっとそのときにちゃんとエヴァを全編見て、あれがエヴァだったのか!と気づいたのでした。まあ低学年には早すぎたのですね。理解すること、物語をはっきりとたどりながら得られる快楽というものをあまり味わってこなかったんだろう。近所のお姉さんが引っ越すときにくれた少女漫画の4巻とか中途半端な本をよくわからないまま読んでたり、自分で漫画買うときも全く読んだことのない奴の35巻を急に買ったりしていて、それで楽しかったのだから、私はたぶん正しく物語で育っていない。だからこそ話が飛ぶようなそういう文章が面白いし、詩とか書くし、説明を追い求めないのかもしれないしそのへんはまあ関係ないのかもしれない。私にとってはただただそういう物語の消費が自然なことで、起承転結を全て知ることがそこまで重要ではなかった。人間だって過去に何があったとかそんなのわからないまま、現在だけですれ違うじゃないですか。いつだって知ることができるのはその人の断片で、だからわからないということのほうが気楽だったのです。理解をさせるために踏まれていく段階というのがどうも煩わしく思ってしまう。そしてだからこそ文脈を削り落としていく歌詞が好きだったのだろう。もちろん一切物語を読んでいなかったわけではないので、ある意味「不親切な物語」に対して懐かしい気持ちになる。私が小さい頃テレビとかで見ていた「よくわからないが何かが動いている」という感覚が、ここにもあるな、と思いながら見てしまう。純文学と呼ばれるものはたぶん、こういうものなんじゃないかな、と時々思うのだけどそれは寝ぼけているせいでしょうか。なにもかもが私にわかるようきれいに整頓されて見えると思ったら大間違いだ、ということと、私という存在は他人にとって全くもって理不尽なもので、そして理解を求めることはとてつもない暴力なのだという価値観はそういう過去が育ててくれた。想像以上に他者は私を理解せず、そして理解しないからこそ私は自由で、生命体で、そして他者のことを理不尽なほどに理解をしない。理解などできないままに、それでもその人がそこにいるのだというそういうのを子供の頃、テレビで見て愉快だと思っていたんだろう。